否応なく
カーテンからの木漏れ日と隙間から入り込む冷気で目が覚める。
眠りに落ちた時間はわからないが体感ではそんなに眠った感覚はない。
重たい身体を引きずりながらベッドから降りて制服から着替えた。
リビングまで出て朝のルーチンになっていたコーヒーを淹れる作業と朝食を作る気になれないときに用意していたシリアル商品の封を開けてミルクを入れるだけ。
食欲もあまりないから買っておいてよかった。
栄養は事足りる。
寝起きで思考が鈍っていたけれど昨日のこと。
何故か帰ってきた女。
忘れてるわけもない。
僕にとって悪の化身。
トラウマの権化。
リビングで出てきたのも家の中に人の気配がしなかったからだ。
実際に確認したところ姿が見えず玄関に靴もない。
現在の時刻11時を下回ったところ、何処かに出掛けた様子。
「っと」
自動で玄関の扉が大きく開き身構える。
息を切らせて厚着をしていてもわかる上下する大きな胸。
走ってきたのだろうか髪型も崩れている。
「よかった……。自宅に居たんですね」
「昨日からずっといたけど」
「何度も連絡したんですよ」
「あぁ、忘れてた」
こっちの問題もあったんだ。
家での出来事の方が衝撃で記憶が少し飛んでいた。
昨日男と二人でいたのに嘘をつかれた。
嘘をつかれるのはいい。
でも、彼女の顔を見ていると忘れていた感情が僕を覗き込み心がざわつく。
嫉妬とか独占欲と猜疑心。
良くない感情。
「忘れてた……?」
だからと言って正直構ってやる余裕はない。
確か今日この家で一緒に過ごす約束だった。
僕も僕で楽しみにしていたはずなのに、たった1つの出来事で崩れる脆さ。
疑問だらけの中、光り輝く彼女の存在に影が落ちた。
「悪いんだけど帰ってくれないかな」
「どうしてですか。今日イヴですよ、色々と準備してたんですが」
「用事があるって伝えたよね?」
棘のある言い方になってしまったようで、目の前の女の子が狼狽える。
一度も見せたことのない僕の苛立ち。
あたっていると自覚している。
彼女の顔をみて後悔。
こんなことを言いたいわけじゃない。
「その……、私は一緒に居たいです」
「ごめん。今日は無理」
恋人にとって大切な日ではあるだろう。
その余裕がない。
二人でいるとこれ以上あたってしまいそうだから。
「……っ。その、明日はどうしますか?」
「明日?」
「麗奈との約束」
「そうだね……」
家にも居たくない。
ちょっと待ってくれと伝えてから、夏菜を外に置いたまま一度部屋に戻り、スマホ拾いあげて電源を入れ直す。
凄い着信履歴は無視して、父さんからメッセージがあるのを確認した。
僕と彼女の問題は些細なこと。
今考えるべきは家族の問題。
彼女の両親は僕のことを家族と思ってくれているけれど、僕はまだ違う。
良い人たちだとは思っている。
夏菜のことは大切に想っているが、恋人以上には思えていない。
『少し早めに帰る』
そっけないメッセージ。
具体的な日にちが出ないのは彼の誠実さが出ている。
約束出来ないことは約束しない。
それでも早め帰宅することは誓ってくれた。
今日ぐらいは我慢するとして、家にいるあの女とも顔を会わせたくない。
人がいればこの気持ちにも誤魔化せる。
悪い話ではない。
約束したまま誘いに乗ることにする。
「明日は行くよ」
「そうですか。よかったです」
「わざわざ来なくても、電話で――。僕が電話の電源切ってたからか」
「どうしたんですか? 何かあったのはわかるんですけれど」
何もないと言うには僕と彼女の関係は深すぎる。
「少し話しませんか?」
「悪い」
いつ戻ってくるかわからないこの場に留まるの嫌で、かと言って彼女とも今は一緒にいることでもやもやとした嫌な感情が湧き立つ。
彼女の表情が曇る。
「夏菜って僕の彼女だよね」
「当たり前じゃないですか。何を言っているんですか?」
僕の質問に怪訝な顔を見せる。
意図が読めず困惑しているだけ。
「ならいいや」
それだけ聞ければ十分。
前に買っておいたリングの入っている紙袋ともう一つ別の小さな箱。
昨日渡す予定だったもの。
「これは?」
「冬乃さんの誕生日でもあるだろ」
「あぁ、ありがとうございます。でも先輩が直接渡したほうが母さんも喜ぶと思いますよ」
「しばらくはキミの家には行かないから」
「……あの、本当に何があったんですか? というか私何かしましたか? 以前にあったことを思い出す態度で不安になるんですが」
「いつか話すかもしれないけれど、今日のところは帰ってくれるかな」
「やっぱり少しでもお話出来ませんか? 納得出来ません」
遠慮がちに袖を掴まれる。
無意識に振り払う。
「あっ……」
「悪い」
「いえ。なんとなくその反応でわかった気がします」
以前にも似たようなことがあった。
でも今回はその本人が現れた。
「詳しくはわからないので何かあったら絶対に言ってください。今日のところは引き下がります」
彼女は更に何か言いたそうにしながらも頷いて背を向けた。
その姿を見届けることなく、扉を閉めて鍵を掛けた。
労うことも心配してくれた感謝も忘れていた。
昨日の光景が過る。
話し合う機会はいずれ。
今のこの状況が落ち着いてから。
手遅れになることも考えられる。
でももし本当に浮気だったして。
それが本気になったところで浮気した事実は変わらない。
そんな相手とは一緒にはいられない。
信用と信頼はなくなり共にいることが苦痛になる。
僕は耐えられない。
恋愛するデメリット。
血の繋がらない他人にどこまで信頼を置けるか。
相手のことを大事に思うあまり、少しのことで胸がざわつく。
昨日まではメリットばかり受け取っていた。
一緒にいることで癒やしがあった。
幸福もあったと思う。
でも今のその逆。
そんなことを考える自分に一番イラつく。
※
夕方を過ぎてインターホンが鳴る。
相手は分かっていて、父さんから何かしでかさないように家に入れても良いと。
外まで監視しなくてもいいとまで言われている。
どうしても辛いなら市ノ瀬の家を頼って泊まることも視野に入れろとも。
詳しい話は家に帰ってから。
預金通帳や印鑑は僕の部屋に保管してあり、あの女が家を出てから新しく作ったものなので引き出そうとしても大丈夫だとは思う。
相手の名字も変わっている。
念のため鍵付き引き出し入れておくことにしていた。
朝起きてから家を荒らされた様子もない。
本当になにしに戻ってきたのか。
「ただいまー」
「……」
数十年振りに顔を合わせた人間と思えないほど明るい声。
昨日よりは落ち着いていられる。
胸や背中のズキズキとした痛み。
幻覚の痛み。
体調に問題はない。
彼女のため自分のために向かい合うべきなんだろう。
ちっぽけな勇気を奮い立たせる。
自分が自分を嫌いになる前にどうにかしたい。
今年一年の出来事がなければ間違いなく折れていただろうな。
それだけで脚の震えは収まっていく。
僕からもこの女の様子を確かめることにする。
気づかれないように徐々に情報を集める。
「どこに行ってたの?」
「んー? 買い物」
手には近所のスーパーのビニール袋。
買い物に出かけたことに嘘はなかったようだ。
「なんで?」
「なんでって、あの人はどうせいつものように仕事で帰ってこれてないでしょ」
あの人とは父さんか。
「うん」
「渉も男一人じゃまともな食事も取れてないだろうって」
言っていることは至極当然。
でも男が料理出来ないと思うのは時代錯誤。
「だから夕飯は任せてちょうだい」
「あぁ……うん」
なんとも歯切れの悪い返事。
そもそも子供の頃にまとも会話もしてない人物。
言葉に詰まる。
仲良くする必要もないし関係なんて修復出来ないほど壊れている。
話しているだけで胃がきりきりする。
食事の時間まで自室で静かに過ごす。
出来ることは少なく、黙って読書をするほかない。
音を立てれば癇癪を起こされた記憶が蘇り、縮こまり嵐を過ぎるまで耐えるしかないのだ。
控えめなノックの音。
緊張。
身体が一瞬強ばる。
過去に囚われている。
恐怖。
「そうか、僕。この人が怖いんだ」
この幻覚痛も過去に暴行を受けたこと。
それが蘇っていただけ。
「出来たから来なさい」
従ってリビングに足を運ぶ。
ちゃんと食事は用意されていた。
コンビニ弁当ということもなく手作り。
生まれて始めてから生みの親の手料理を食すことになった。
揚げ物に煮物。
そして揚げ物。
栄養バランスの考えられていないメニュー。
恐る恐る口に運ぶ。
食べれないわけじゃないけれど味が濃い。
醤油と塩。
大雑把な味付け。
胸焼けがしそう。
いきなり家にやってきたかと思ったら料理。
何がしたいんだろうこの人。
「なんで来たの?」
当然の質問だと思う。
「どうしてって自分の家じゃない」
「離婚して何年だよ」
「そんなの良いじゃない。渉は私の子供なのは変わりないじゃない」
血の繋がりはあるけれど、親権者は父さんだ。
母親面されても困る。
離婚する際、代理人を立てたりすることもなく仕事と僕を優先した結果離婚届を出しただけと聞いている。
財産分与もなし慰謝料の請求も養育費支払いもなく、この女側に有利な離婚。
家を捨てて家族を捨てた。
今更なにを――。
「帰らないの?」
「帰る場所はここでしょ」
何を言っているの? という顔をされてもこっちがそういう思い。
男に捨てられて居場所がなくなったというところか。
子供の頃は怖かったこの女も今見ると哀れに感じる。
その意味のわからない思考回路には恐怖は覚える。
なんで許されると思っているのか。
会話を続けることで頭痛がしてくる。
恐怖よりも怒りのほうが上回る。
感情がぐちゃぐちゃ。
まともな会話は無理だと悟り、食事を黙々と口に運んでいく。
いつまでこんな生活が続くのだろうか。
とりあえず父さんが帰ってくるまでは耐えるしかないのだけれど。
年末にかけてなんでこんなことに。
過去は過去だと思っていた。
向き合えってことなのか。




