PAPER 10 ー人間の条件ー 1
オリンピックの会場前だった。
二人共、ここが決戦の場だという事が分かっていた。
このオリンピック会場こそが、この国を象徴するものだと、二人の間で、暗黙のうちに、共通認識が出来上がっていた。
今、この国付近にある地下世界において、ゾンビ使い同士の試合が開催されていると聞いている。その事を二人共、知っている。二人共、心の中で思っている結論は同じだった。
オリンピックなんてものは、死体を動かしているようなものだ。そして、何よりも、それを望む者達は、ゾンビ使いに動かされている腐乱死体のようなものだ。
中身の無い人間、心の無い人間、思考の無い人間、どれだけの犠牲の上に成り立っているのかを理解出来ない人間が、熱狂し、内政から眼を背ける為に開催される事を望む。
自分達は、競技者、として、この舞台で戦う、マリオネットのようなものだ。
二人は考える。
人間が人間である、という事。
人としての条件とは、一体、何なのか? と…………。
†
「結局の処、貴様は弱いんだよ。俺と同じように。体制に従っていればいい。上の人間に従っていればいい。だから、自分の頭で考える事を投げ捨てるんだ。それは弱いからだよ。自分が、自分達が、何をやっているのかを分からないから。そんなの生きているって言えるのかよ? なあ、ヴェンデッタ、そう思わないか?」
アビューズは、核心となるような問いかけをする。
ヴェンディは何も、答えない。
夜風が、吹き抜ける。
この国の人間は奴隷であり、家畜であり、機械みたいなものだ。
ヴェンディは、力を手にしても、この国の一部である事を選んだ。アビューズは自らが、意図的にプログラムされて、兵隊として、あるいは殺し屋として生きるしかない人生を嘆いた。
†
Yes Sir,Yes Sir。
兵士達は、上官の命令に従っていればいいし、軍人全体は国の命令に従っていればいい。彼女の仕事柄、兵士達を見る機会も多い。規格化され、規律化され、統一化されて、整備されて、調和されたオブジェのように、彼らの隊列は整然としている。
ヴェンディは、自国の兵隊達の宿舎を見てきた。
彼女の彼氏であるポッパは、自衛軍には入らないと言った。優男である彼は向いていない、と。それに彼は奨学金で大学に行っているわけではないし、将来は平凡に、大企業の会社に就職したい、と述べていた。
あのオリンピックのドームもまた、工事に工事を重ね、沢山の費用を用いて、積み上げられた大神殿だ。この一つの大イベントが開催される事に、みな熱狂し、この国の選手達が輝かしい金メダルを取る事を期待している。
ヴェンディは、アビューズと戦わなければならない。
どちらが正しいのか、と、それぞれの宿命を賭けて。
ここから見える、あのオリンピックのドーム。
それは、この国の権力の象徴だった。
何本もの国旗が、この辺りには掲げられていた。
みなが望んでいるものは、愛国心という名前のブランドだった。この国の人間であるという事、この国で生きている民族であるという事、それらがこの国の一般市民の矜持だった。傷痍軍人の声も、反戦を掲げて刑務所にブチ込まれていく者達の声も、貧困に苦しみ生活保護を切り捨てられていく者達の絶望も、マトモに医療を受けられずに癌で死んでいく者達の悲しみも、全て愛国心という概念によって抹消されていった。
そして、この国は、他の国からやってきた大企業に支配されて、他の国からやってきた武器商人達の武器が集められて、この国の政治家達は、彼らの言いなりだった。
「闇が深いな。……深すぎる……」
アビューズは、ぽつり、と呟く。
左腕と腹を負傷したヴェンデッタは、彼に憎しみを抱いている筈だ。
「なあ、ヴェンデッタ。お前は何の為に生きている……?」
「コードネームで呼ばれるのは好きじゃない。私はヴェンディ、っていう名前がある……」
「そうか、ヴェンディ……。お前の事は調べさせて貰ったよ。元首都知事の飼い犬なんだってな?」
「そうね…………」
「あの政治家がどれだけ人間的に腐っているか分かるか? 率先して、この国を売国して、全体主義体制を望んで、甘い金という汁を吸って、武器商人達を招き入れている。あいつを殺せば、ほんの少しくらいは、この国はよくなるかもな?」
「この国の体制は、バークスを殺しても変わらないよ、何にもね。あるいは首相を殺してもね」
「この国の宗教を母体としている、『繁茂の館』が、囲っている傷痍軍人達の施設を見てきたぜ。お前が殺したがっている、あのヒゲ眼鏡のジャーナリストもその施設を見てきたらしい。
「アビューズ」
ヴェンディは、何処か哀しそうな声で言う。
「私には、こういう生き方しか出来ないし、分からない……。私はこの国で生まれて、この国で育って、この国で超能力者として目覚めた。…………。この国のルール以外の考えなんて分からない。ただ、私には大切なものがある。守りたいものが……。家族と、そして平穏で退屈な日常と、そして恋人……。貴方には、私の気持ちは分からないかもしれないけれども……」
ヴェンディは、マグナムを握り締める。
「そうか。この俺には、尊敬する一人の上司の事しか分からない。俺の人生に道を示してくれた男だ。だが、俺が今やろうとしている事は、そいつに対する裏切りだ。彼の俺への期待も信用も、俺は全て投げ捨ててやるんだ。俺はこの国の政治家や大企業の社長、この国を食い物にしている多国籍企業の社長や武器商人どもを皆殺しにするつもりでいる」
それを聞いて、ヴェンディは、薄ら笑いを浮かべる。
「そんな事したって、この国のシステムは、何一つも変わらないよ。だって、みんなこの国の人間としての生き方しかしらないし、今の権力者が全員死んだって、後見となる人達はいくらでもいるし、何よりも、永遠に同じシステムが続いていく事を、みんな望んでいる。アビューズ、お前のやろうとしている事は悪だと思う。みんな、進んで、この国の価値観を受け入れているから…………」
「傷痍軍人達や、わずかに隠れている反戦を望む者達、この国からの自由を望む者達は、そんな嘘に気付いているんだぜ。俺は、彼らの正義を信じたい」
少しだけ、二人共、沈黙する。
「アビューズ、私は歯車の部品。その部品として、私は貴方を始末しなければならない。バークスを殺そうとしたのを見て、私とお前は戦う事になったね。何故、貴方は、バークスを狙おうと思ったの?」
「彼の推し進めている計画を知ったからだ」
アビューズは、忌々しげに言った。
「より、この国の弱い人間達は、苦しめられる事になると思ったからだ。あいつは、踏み込んではいけない領域にまで、足を突っ込んだ。そして、この国を支配して、権力の甘い汁を吸っている他の政治家や大企業の社長や、武器商人どもを納得させた。あいつは、言い渡された原稿を読み上げるだけの首相よりも、はるかに悪質で、この国の本当の陰の支配者としか思えない……。バークスという老獪は、首相よりも最悪だ」
「バークスが陰の支配者? 彼は他の人達が考えている事、望んでいる事を、リーダー・シップを取って、率先して動いているだけに過ぎないわ」
「そうかよ……」
アビューズは、苦笑いとも、自嘲とも言える、何とも言えない乾いた笑いを浮かべる。
「俺の努力は実らない、と」
「ええ、そして、この国に紛れ込んでいるドブネズミのファントム・コートの願いも、何も実らない。全ては空虚な事よ。やるだけムダ、そう思わない?」
四つの脚が、動く。
二つの影が、地面を這う。
「最後の戦いをしましょうか。お互いに、どちらかが死ぬまでやりましょう」
ヴェンデッタは、拳銃の安全装置を外した。
「そうだな」
アビューズは、刺身包丁を腰から取り出す。




