巨乳とハゲと泳げない男
この大洋高校の水泳の授業は二クラス同時の男女合同で行われており、それぞれの更衣室はプールを挟んだ向こう側に存在している。
そんな男子更衣室の中は異様な静けさがあった。しかしこれは当然のことのように思える。この時期の男子が授業とはいえ、近くで女子達が水着に着替え、しかもその女子達と一緒にプールに入るというのだから、意識するなという方が無理だ。
それに何より、小声で聞こえてくるある人物が主にこの異様な静けさの原因を作り出しているように思う。
「な、なぁ……。おれ、砂城の水着姿とか見たら死ぬかもしれねえ……」
「奇遇だな。俺もそんな気がする」
「あの胸は凶器だよな。ていうかもはや大量殺人兵器だ」
「しかもスクール水着とか。破壊力やばすぎだろ」
聞こえてくる親友の名に、しかし、海斗は反応を示さない。というかそれどころではない。着替えるのに長い時間を使い、わずかでもプールの時間を遅らせようとしているようだった。しかし実際そんなことは何の意味も為さない。文字通り、ただの時間の無駄だった。
「お~お~。うちの姫さんは大人気だな」
その隣で既に着替え終えた大樹が、軽く準備運動をしながら話しかけてきた。
「ん? あぁ、みたいだな……」
相変わらずローテンションな海斗だが、その言葉には素直に同意した。幼馴染みフィルターを外してみるならば、確かに瑞希は文句の付け所がないくらいの美少女だ。その上気さくで話しかけやすく誰からも好かれる才能を持っている。さらに言うなら高校一年だとは思えないくらいのプロポーションをしている。クラスで目立つのも当然といえる。
正直、幼馴染みとして一緒に過ごしていなければ、一生話をすることすらなかっただろうと常々思っていた。
「ほほぅ。やけに素直だな」
「うっせ」
ニヤニヤしながらこちらを覗き込む大樹を押し退け、やっと着替えを終えた。その時、ちょうどチャイムが鳴った。海斗にはこのチャイムが地獄の門が開く音に聞こえていた。
「ほれ、さっさと並ばんかい男子ぃ!!」
男女合同、とはいっても、同じ時間にプールを使うというだけで一緒に授業をするわけではない。ちゃんと男女分かれて教師も二人いる。
男子の方の担当教師はスキンヘッドにグラサンを掛けた、どこかヤ○ザみたいな格好をしている先生だ。なのに名前は沼田愛之助というらしい。苗字だけならまだしも、愛なんて欠片も感じ取れない風貌に初めて授業を受けた時、「あっ、おれ死んだ」と誰もが思ったらしい。でも、案外熱血教師であるらしく信頼は厚い。そして暑苦しい。そして怒ると滅茶苦茶怖い。
ちなみに女子の方は棗が担当している。彼女も体育教師だった。しかし──
「棗ちゃん! なんで水着じゃないんすかっ!」
「ちくしょう! 密かに楽しみにしていたのに!」
「神も仏もいないというのかっ!」
棗は今朝と同じく青いジャージのままだった。クラスメイト達が口々に文句を言う。
「おどれら! 並べ言うとんのがわからんのかぁ!!」
「誰だ今棗ちゃんって言ったのは! 沈めてやるから前に出ろ!」
二人の教師の怒号が飛び、全員が一気に口を閉ざす。というか、並べばいいのか前に出ればいいのか、どっちかにしてほしいのだが、と海斗は苦笑いする。
ようやく並び終わると全員で準備体操を始めた。しかし、男子達の視線はある一点を見続けたまま動かない。そのせいで準備体操がすごく気持ち悪いことになっている。その視線の先にいたのはもちろん、先程話題に上がっていた瑞希だった。
「いっち、に、さん、し~」
「ごはっ!」
「ぶっ!」
「ぐぁ!」
「げふぅ!」
オーソドックスな紺色のスクール水着、胸元には「すなしろ」と、何故か平仮名で名前が書かれていて、その文字が少し形が歪んでいる。
体を動かすたびに揺れる瑞希の胸。そのたびにあがる断末魔。準備体操中なのに、血の海に沈むクラスメイト達を見ながら、ダメだこいつら。早くなんとかしないと。と思う海斗だった。
準備体操が終わり、シャワーを浴びるためにシャワーの前に並ぶ。しかし、何でこう、学校のシャワーを浴びるのはこんなに恐ろしいのか。海斗はシャワーの順番待ちをしながら憂鬱になる。
向こうでは女子が悲鳴をあげながらシャワーを浴びている。だが、男子達は誰一人声も出さずにシャワーを浴びている。内心すごいなと思っていたのだが、よく見ると目を閉じて手を合わせていた。
その姿はまるで瞑想か滝行のようだった。こいつら頭冷やしてるだけじゃねえか。ていうか早くどけよ。後ろつかえてるんだよ。 と声には出さなかったが、心の中でツッコミを入れた。
やっとシャワーを浴び終えた海斗はプールサイドに並び直す。そこから見るプールはさながら三途の川のようだった。三途の川を見たことはないけれど。
「男子共。ちゃっちゃとプール入らんかい!」
沼田の声が飛び、全員プールに入る。だが、海斗は中々プールに入れずにいた。別に水の中に入れないわけではない。風呂だって普通に入れる。でも心のどこかで拒否反応が起きていた。沼田の声が再び飛んできて海斗は意を決してプールに入る。
まだ六月だからか、暑がりの海斗でさえ水の中は冷たく感じた。
「そんじゃあまずは、三レーンまで泳いでそんで戻ってこい」
と沼田は指示を出した。このプールは六レーンあり、一から三が男子、四から六が女子となっている。女子達も同じように四レーンまで行くように指示されていた。それを聞いた男子のほとんどは即三レーンまで泳いでいった。目的は明らかだ。少しでも女子に近付きたい、といったところだろう。その中には大樹の姿もあった。お前もかよ……。
海斗はバレないように潜ったまま水中を歩く。正直、潜るのだけでもしんどいのだが、ここは我慢だ。
なんとか三レーンまで到達して、ふと振り返ると、もうほとんどの男子が一レーンに戻っていた。もちろん海斗はダントツのビリだった。嫌に注目を浴びてしまっている。海斗は気持ちだけ早めに水中を歩いて戻った。
やっとプールサイドにまで戻った海斗に待ち受けていたのは、沼田による非情な言葉だった。
「んじゃあ泳げる者は三レーンと二レーンに、泳げん者は一レーンに並べ。あと潮凪。お前は当然一レーンじゃボケ。歩いとんとちゃうぞ」
うわぉ、バレてーら。でもそりゃそうか。全員で泳いでいた時ならバレなくても一人だけプールに残っていたら、そりゃ注目を浴びるわけだし、泳いでいないということもわかってしまうだろう。
海斗は肩を落としながら一レーンに並ぶ。途中、大樹に肩を叩かれ「ドンマイ」と励まされた。そのおかげか、少し気が楽になった。
そして、また気が重くなった。なんと一レーンに並んだのは海斗を含め、四人だけだったのだ。しかも内三人(もちろん海斗以外の三人)は、普通に泳げている。ただ、すごく遅いというだけだ。人のことを言える立場にはないのだが、それはもう遅かった。
海斗はその列の一番後ろに並んでいた。そしてついに自分の番が来てしまった。このプールの長さは五十メートル。極一般的な長さではあるが、海斗には果てしのない道のりとしか思えなかった。飛び込み台に腰をかけ、ゆっくりと入水。隣のレーンではクラスメイト達が普通に飛び込みをしているのに対して、なんという差なのだろうか。
とはいえ嘆いていても仕方ない。海斗はもう一度適当に水中歩行でもしようかと思ったが、いきなり背筋に冷たいものが走ったような感覚がした。プールなのだから当然だ、というわけではなかった。そういうものとは全く別種のものだ。海斗はギギギッという音が聞こえてきそうなほどのぎこちない動きで後ろを見る。そこには海斗を見下ろす鬼の姿があった。……まあ、沼田だが。
そういえば、さっき水中歩行してるのバレたんだった。当然注意して見るに決まっている。
ここは素直に白状して泳げないのでビート板ください。と言うべきか?と思い、「あのぅ……」と話しかけようとした時、
「さっさと行かんかわれぇぇ!!」
「は、はいいいいい!!」
沼田のあまりの形相に恐怖した海斗は水を掻いて泳ぎ始めようとした。しかし、一向に前に進まない。それどころか沈んでいく。少し遠くから笑い声が聞こえてくるような気がするが、海斗にはそれどころではなかった。
「(し!し……ぬぅ…………!!)」
スタートして二メートルの距離で、海斗は溺れかけていた。溺れている、と頭で判断してしまうと、足がつくにも関わらず、勝手にパニックになってしまい、まともな思考が出来なくなる。尚も聞こえる笑い声。だが、先程より数が少ないような気がするなんて、慌てた頭の片隅でそんな悠長なことを考えていた。そして意識が薄らいでいく……。
「てめえら黙りやがれ!!!」
力強く、そして荒々しく発せられた声は水中にいた海斗にさえ、はっきりと届いた。そのすぐあと、ドボンッ、という音が聞こえ、誰かが海斗の体を支えて浮かび上がらせた。
「げほっげぼっ! はぁ……はぁ……」
「大丈夫か、海斗」
「あ、あぁ。……すまん。毎度のことながら」
「気にすんな。いつものことだろ」
海斗を助けてくれたのは大樹だった。そして、さっき怒鳴ってくれたのも。
息を整え、やっと意識がはっきりとし、辺りを見渡すと、全員が神妙な面持ちでこちらを見ていた。
見ると、瑞希も心配そうな目でこちらを見ている。海斗は軽く手を振ってみせた。すると瑞希はほっとしたように息を吐いた。
そのあと、海斗は念のためだと言われて、ずっと保健室で休むことになった。
その間に沼田やクラスメイト達から謝罪を受けた。沼田は無理矢理泳がせたこと、そして溺れている時に助けに入れなかったことを、すごく真摯に謝ってくれた。それはもう、こちらが恐縮してしまうくらいに。なので海斗も遺恨を残すことなく許すことができた。何だかんだで良い先生なのだということがわかった。
クラスメイト達は、海斗が溺れている時に笑ってしまってすまなかった、ということだった。そちらも、きちんと謝ってくれたし、それに、逆の立場だったら自分も笑ってしまっていただろう、ということで、その場を丸く治めた。
六時間目の授業にはなんとか参加することができ、今日の授業が終わった。
放課後のホームルーム。クラスメイト達が帰宅や部活に向かっている最中、海斗は棗に呼び止められていた。
「なんですか、棗ちゃ──棗先生」
「なんで下の名前なんだ。宮永先生と呼べ。──っと、今はそれはどうでもいい。潮凪、お前に話がある」
「はぁ……。なんでしょう?」
その話長いですか?俺、このあと帰ってアニメ見たいんですけど。という言葉がのどまで出かかったところで、棗が言葉が先に発せられた。
「これから水泳の授業の補習を行う。今すぐプールに集合だ」
「………………はい?」
──えっ?嘘?まじで?一日二回目の水泳?あんなことのあとに??
大量の疑問符を浮かべる海斗をよそに、棗の目には本気の二文字が映し出されていた。




