貸し借り
「えっ? 今なんと?」
既に水着に着替え終え、プールサイドで待っていた海斗は間抜けな顔をして棗に聞き返す。
「だから。九重は今日は水泳の授業がないから補習はないと言ったんだ」
棗が哀れなものを見るような目で海斗を見上げながら溜め息を吐く。
海斗は六組の体育が月水木にあることを知らなかった。
海斗は少し考え込み、気付く。
「……じゃ、このプールは俺一人の貸しきり、ってことですか?」
「良かったな。こんな贅沢はそうそう出来ないぞ」
にやにやしながらそう言う棗は何故か楽しそうだった。海斗は誰もいないプールを見て大きく溜め息を吐くのだった。
「俺、昨日九重に『また明日な』みたいなこと言っちゃいましたよ。うわ、恥ずかし!」
一人昨日のことを思い出し、自分の失態を恥じながら準備体操を始める。
だが、ちょうど準備体操が終わる寸前くらいに、入り口の扉が開いた。
水泳部の人でも来たのだろうか、とちらりとそちらを向くと、そこには──。
「……すみません。遅れました」
昨日とまったく同じ台詞を言う九重の姿があった。
「「え? 何で?」」
奇跡的に海斗と棗の声が重なる。
九重は首を傾げる。
「……たしか、昨日潮凪君は『また明日』みたいなことを言っていた、ような気がするのだけど」
「あ、うん。確かに言ったけど……」
しかしそれは海斗がただ無知で、明日も一緒に補習を受けるものだと勘違いしていたからの台詞であり、九重は今日補習を受けるはずではなかったはずだ。
「九重。私は水泳の授業がある日に補習を行うと言ったはずだが?」
棗は、怒っているわけではなく、ただ連絡が上手く伝わっていなかったのかと思い、九重に確認を取る。
「ええ。覚えてます。ですが潮凪君が明日と言っていたので」
どうやら九重は棗の話を忘れていたわけではなく、海斗の勘違いのせいで勘違いさせてしまったらしい。
棗はじと~っとした目で海斗を見やる。
海斗はすぐに九重に謝罪する。
「悪い九重。俺のせいで誤解させちまったみたいで」
しかし、当の本人は気にした様子はなく、首を横に振る。
「別に構わない」
その一言に海斗は少し気が楽になり、ほっと安堵の息を漏らす。
だが何故かその後、九重は指を一本立てた。
「……貸し」
「え?」
「貸し、1」
「あ、あぁ。うんわかった……」
ただでは許されなかった。だが、余程の無理難題を言い渡されない限りはそれでもいいと思った。
「それと、先生」
「ん? 何だ九重」
棗はいつの間に用意したのか昨日と同じように椅子に座っており、何故か昨日は無かったパラソルも差されていた。
何でちょっと優雅になってるんですか、とツッコミを入れたかった海斗だったが、九重が先に話し出したので、機会を失ってしまった。
「私、これから火曜日に補習を受けようかと思うのですが。その方が先生に取っても都合が良いのではと思いまして。たった二人だけのために補習を三日も行うのは大変では?」
「ふむ。確かに私としては助かるが、お前はいいのか? 色々と大変ではないか?」
「はい。構いません。昨日先生にはお世話になりましたので、そのご恩返しとでも思ってください」
「……そうか。なら頼む」
昨日、というと、九重が棗に下着を買ってきて貰っていたなと、そこまで思い出し、すぐさま邪心を振り払うために頭を振る。
それにしても、九重は借り貸しにキッチリしている性格なんだな、と思う海斗。しかし、その九重の提案に些かの不安を覚える。
この大洋高校の一年生は週に三回体育があり、内二回はプールで、残り一回はグラウンドや体育館での授業となっている。
九重の場合、月曜と木曜に水泳。水曜にグラウンドの授業という形になっていると棗に聞いた。ちなみに海斗の場合は月曜と火曜に水泳。金曜にグラウンドの授業がある。
つまり九重は補習を火曜にいれるとなると、四日連続体育があるのと同じになる。
故に棗は「いいのか?」と聞いたのである。
しかし九重は涼しい顔で大丈夫だという。だけどどうにも気になってしまうので、海斗はそっと手を上げる。
「あのさ。来週は俺が九重の水泳授業がある時に補習するってことにしないか?」
「何故?」
「何故、って言われてもな。それだとなんか俺ばっか楽してるみたいだしさ。あっ、別にこれで今日の借りを返すつもりじゃないから。ただ順番にしないかって提案なんだが」
九重は少し考える素振りを取ってからこくりと頷く。
「じゃあ、それでいい。わざわざありがとう」
「あぁ、気にしないでくれ」
正直なところ、半分くらいは自分のための提案だったので、本当に気にしないでもいいと思っていた。
海斗は相手に負担ばかりかけるのは悪いと考えてしまう傾向にあるので、実際にそうなっていると、悪くもないのに罪悪感を感じてしまうだろうと自分でも理解していたからだ。
そんな性格故に、よく大樹達から『お人好し』と呼ばれる。
「まあ、私としては最初は三日無駄にするつもりでいたから一日少なくなるならどっちでもいいんだがな。ほれ話が済んだなら早く練習を始めろ。時間が無くなるぞ」
口は悪かったが、わざわざこちらの都合を考えてくれている棗も、結構なお人好しである。
これも一種の借りになるのだろう。今度何かお礼をしなくちゃな、と思いながら海斗はシャワーを浴びに、九重は準備体操を始めた。
「言い忘れてたが、ちゃんとアームリングを付けろよ金槌共」
「「…………はい」」
この軽いS気質さえ無ければもっといい先生なのにな、と海斗はシャワーを浴びながらひっそりと涙を流した。
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昨日と同じように二人で練習をする海斗と九重を、校舎から見下ろす者がいた。
瑞希と大樹である。
プールと校舎の距離は数メートルくらいで、目の良い者なら校舎からプールにいる人の顔を確認出来るくらいの距離だ。
そして二人とも視力は良く二人をしっかりと認識している。
大樹はニヤニヤとした表情で二人を眺め、瑞希はわなわなと震えながら二人を凝視していた。
「誰? あの美少女……?」
「言ったろ。あれが九重だ」
「……九重って、不良天才男子高校生なんじゃ……」
「天才とは言ったが不良男子とは一言も言ってないぞ。そもそも不良がそう簡単に学年一位になれると思うな。そんなのは少女漫画ぐらいにしか生息していない」
二人から目を離さないままにとんちんかんなことを聞いてくる瑞希を見て、大樹はやれやれと肩をすくめる。案の定、瑞希は何故か九重のことを男子だと勝手に思い込んでいたらしい。
思い返せば海斗は九重のことを名前しか言っていなかったし、大樹自身も学年一位の天才だということしか教えていなかった。
もちろん大樹は九重が女子だということを知っていた。何せ彼女の下の名前は栞だからだ。流石にこの名前を見て男だと思う者は少ないだろう。
大樹は視線をプールにいる二人に戻す。
今海斗は九重の手を引いて泳ぎの補助をしており、九重はぎこちなくばた足の練習をしていた。
端から見れば仲睦まじいこと微笑ましい限りである。が、隣にいる瑞希が、なんだか暗いオーラを放っているので、迂闊なことは言えなかった。
その場合、とばっちり以外の何物でもない八つ当たりを受けるのだが、そんなことを気にする瑞希ではない。幼馴染みであるからこそ許されるが、理不尽ここに極まれる。
大樹はあまり刺激しないように話しかける。
「……どうする? プールに特攻かけるか?」
……返事は無い。ただの修羅のようだ。
いや、何だか小さな声でぶつぶつと唱えていた。大樹はそっと耳を傾ける。
「……何でこんな立て続けにカイの周りに美少女が現れるの? ラブコメ? カイを主人公にしたラブコメでも始まったの? だとしたら、これ確実に幼馴染みの私とかサブ扱いじゃない? ヤバくない? これからどうし──」
これ以上、聞くのは止めておいた。
「はは……。ほんと、大変なことになってきたな、海斗」
大樹は窓に肘を付きながら、いつの間に交代していたのか、海斗がこれまた下手くそなばた足で泳いでいたのを静かに見下ろしつつ、同情するように呟いた。
しかし、その表情はどこか楽しげであったのを、隣にいた瑞希だけが睨み付けていた。




