狂気の影法師
その日は、尾行をやめた。
恐ろしくなったからではない。本当に引き返せない予感がしたのだ。今の時間帯が深夜なら追ったかもしれないが、まだ朝の九時を過ぎたばかりだ。どう考えても人目に付くし、それくらいは誰であっても考慮すべき危険だ。にも拘らず誘拐を実行したという事は、裏の狙いがある。
例えば尾行されている事に気付いたとか。
例えば犯罪を見過ごせない人を引きずり込みたいとか。
どれだけ怖くても『他人事』だからどうだっていいが、痛いのは嫌だ。それにゲンガーをどちらか見極めるという話なのだから無理に追う必要もない。美子の前例があるように、ゲンガーよりも本人の方がイカれているケースは考慮されるべきなのだ。
だから家に帰った。今は千歳から時々来るメッセージに和みながら朱莉の進展を待っている。
『暇』
『暇』
『暇』
『暇』
『暇』
本当に暇なようだ。
一方の俺は『何となく場が和みそうな面白い挨拶』について千歳と話しているので退屈はしていない。テレビを流し見しながら進展を待っていると、二階から姉貴が降りてきた。今降りて来たばかりなので仕方ないが寝癖が酷い。
「……早くない?」
「その事で姉ちゃんの意見を聞きたいんだけど、良いか?」
「んー弟君の頼みだしな、良かろうとも。でもちょっと待ってね。真面目に聞きたいから整えてくる」
それから十五分。またテレビを見ているとようやく帰ってきた。
「さあ、お姉ちゃんに話してごらん。と言っても頼れるかどうかは別だけど」
「誘拐の現場を目撃したんだ」
顔を洗ってもまだ寝ぼけ眼だった姉貴だが、その言葉を聞いた途端に瞼が上がった。誰だってそうだ。俺だって逆の立場なら日本語を理解出来なくなってこうなる。
「警察には言わなかったの?」
そう。そうなる。誘拐の現場を目撃しておいて通報しなかったんだ。何かの間違いで俺との関係性が引っ張り出されない限り捕まる事はないだろうが、それは善良な市民として適切な行動ではない。加害者も被害者もうちの高校の生徒だ。身元は割れているので通報してしまえばそれで話は終わりなのだが、あれについて話さないとどうしても俺の行動に筋は通らない。
朱莉は本物と確信したから俺に話した。共犯者なら、同じ理屈で誰かに話しても良い筈だ。二人だけで戦って端から勝ち目のある戦いではない。有識者の力が絶対的に要る。それは今しかない。今じゃないと―――もう切り出せなくなるかもしれない。
「姉ちゃん。救世人教を取材しようとした本当の理由って何だ?」
「ん?」
姉貴は自分の顎を押して、無理やり首を傾げた。
「どういう事かな」
「訳あって、今の俺は理由もなく誰も信じられない状況に陥ってる。特にこの話は、俺の命にも関わるんだ。だから教えてほしいんだ。もしも『本物』なら見当はついてるから」
あの時は流したが、本物と確認するには手っ取り早い情報でもある。万が一にも姉貴が偽物に『自分』を売り渡すとは思えないが、それでも主観は危険だ。想像以上に当てにならない。姉貴は暫く惚けていたが、この気まずい空気耐えかねたのか、両手を挙げながら萎えた笑みを浮かべた。
「…………いやー、弟君には敵わないなあ。きっかけは偶然だったよ。でも『ウツシの神』なんて聞いちゃったら 調べない訳にはいかないでしょ?」
―――成程。
心姫は、本物だ。
「―――姉ちゃんさ、もう一人の自分が居るって信じられる?」
「…………信じないとは言わない」
「俺、今それを追ってるんだ。もう一人の自分、ゲンガーってのは『本物』を殺してなり変わるつもりらしいから、それを止めたい。俺が通報しなかったのは誘拐犯の内の一人がその疑惑があるからなんだ。いや、疑惑というよりも確信かな。双子でもないのに二人いるのを確認済みだ」
「話が見えないよ。それじゃ通報しない理由になってない」
「どっちが本物なのか見分ける必要があったんだ。それに、朝に堂々と誘拐を仕掛けるくらいだから何か狙いがある気がした―――なんか俺の言葉だけで伝えようとすると語弊が出そうだから、改めて全部言うよ」
今朝、救世人教のメンバーと思わしき人間に友達が襲われた。
彼等を引き取った警察官は不審な行動が多すぎて同じメンバーの可能性がある(だから通報を躊躇したのもある)。
ウツシは『写し』の可能性があり、ゲンガーと関与している可能性が高い。
ゲンガー持ちの齊藤享明は救世人教のメンバーである可能性が高い。
レイナ襲撃と誘拐は別々の犯人である事は強調しておいた。飽くまで別々。しかし『ゲンガー』という要素を混ぜれば線で繋ぐ事が出来る。レイナを襲って印とやらを付けたのも、油断した友達を誘拐したのも。少し考えれば人身に拘っている事が分かる。レイナの事を『器』とも呼んでいたし。
「……同じ人間が二人いるなら、誘拐があろうと殺人があろうと本来の人数は変わらない。もし救世人教がゲンガーを作ってるなら、誘拐された本物は帰って来ないが偽物は出てくる。総数は変わらない。つまり弟君が躊躇った理由ってのは誘拐通報を逆手に取られたり無力化されて警戒心をあげたくなかったからって事ね」
「そう、そうなんだよ」
「で、弟君はどうしたいの?」
姉貴が胸の下に腕を組んで俺を見据えた。一挙手一投足不穏な動き、不審な変化は見逃すまいと睨んでいる。この返答は慎重にする必要がある。俺だって姉貴を試すような真似をしたのだ。試されても文句は言えない。
「二つの事件は繋がっている『可能性が高い』。それだけだ。頼られたからには私も頑張るけど、方針を明確にしたい。ゲンガーをどうにかしたいの? それとも救世人教をどうにかして友達を助けたいの?」
「ちょっときつい事言うね。弟君、良いように利用されてる可能性があるよ。発言を聞いてたら分かる。特にゲンガーの事。らしいって伝聞でしょ? 信用するなとは言わないけど、私は弟君に力を貸すんだから、そこはハッキリさせて。どっちがいい?」
『他人事』として考えるなら、重要度が高いのはゲンガーだ。本当に世界中が侵略されているなら少しでも食い止める為にもそれを選ぶべきなのだ。塵も積もれば山となる。成果が僅かだからやる意味がないというのは早計だ。
ただ、レイナをこれ以上危険な目に遭わせたくないという気持ちもある。印も器もさっぱり意味が分からないが、このまま放置すればまた巻き込まれる未来は視えている。かと言って朱莉を裏切る気にもなれない。彼女は俺を助けてくれたし、何より今ももう一人の齊藤享明を観察している。そんな彼女を裏切れるかと言われたら俺には無理だ。
なので、少し考えた。考えなしに姉貴を巻き込めば朱莉は怒るだろう。裏切りと思われても仕方ない…………ので、ここからは自己責任。見過ごせない『他人事』を解決する為に、俺が姉貴の力を借りて動く。朱莉は一切関係ないものとする。
「救世人教をどうにかしたい」
「……分かった。その方針でいいのね?」
「やっぱ駄目だ。ゲンガーのゲの字も知らない人間が、宗教のしの字も知らない奴がこんな目に遭うのは間違ってると思う。『他人事』として言わせてもらえば、そういうのは理不尽って言うんだ」
「んー弟君らしい答えだ。最近は記事のネタにも困ってたんだ。丁度いいから、協力してあげる。ゲンガーについては関知しないから、そこは勝手にやってね。でも状況は逐一報告する事。分かった?」
頷いた所で、『暇』と連打していた朱莉からメッセージが入った。
『出かけるみたいだ。報告したい事もあるし、合流しよう』




