アイを示した記憶
最後の記憶。
それはきっと、最初の記憶。
「何故█を呼んだ』
「…………呼んだのは私じゃない。この家の誰かだよ。もう名前もない誰か。あるのは役割だけ。貴方が名前を奪ってしまったから、もう誰が誰なんて区別は意味がない」
「そうか。では何故お前は立っている。名もなき女よ』
「別に、名前がない訳じゃないんだけどね。ただ、これ以上あなたを放っておくと、きっと良くない事が起こるから。これから貴方を閉じ込めます』
「では、何を代償に封じる』
「私の全て。私のアイを貴方に捧げます。だから弟を返して。私の大切なたった一人の肉親なの。生きてるの。血が繋がってるの」
お姉ちゃんはとても怖い顔をしながら俺の手を引っ張って、暗くて狭い四畳半の世界に押し込んだ。物心もつくかつかないかという頃、俺とは即ち████様で、きっと名莚家の誰かを除いた善人から嫌われていた。その原因だった。心の奥底に封じ込められた記憶は、俺自身も避けていた真実。アイを取り戻せたとしても、その道筋は限りなく間違っている。
暗く、寒く、苦しく、汚く、寂しく、虚ろな。
一人は嫌だ。一人は最低だ。一人は駄目だ。一人は一人は一人は一人一人は一人ではアイがない。アイは生まれない。アイが分からない。
「つまらんな。ヒトは』
『如何なさいましたか、████様』
「暫し眠る。█はこの世に必要とされていないらしい。いつの世も損な役回りよの』
『それは我にはどうする事も出来ぬ問題故、申し訳ございませぬ。我には只、見守る事しか』
「良い。構わぬ。█もヒトの温もりを知りたい。孤独は寒いのだ、凍えそうだ。凍り付きそうだ。泣くのは飽きた。もう良いのだ。願わくばこのまま、二度と目覚める事のないように』
█は生まれたくなどなかった。
生まれても、歓迎された事などない。
誰も█をアイさない。
だから生きてても、虚しいだけだ。
「流未。頼みがある』
「な、何? お、お兄ちゃん。様子が変だよ?」
「ここから█を落とせ。もし這い上がってくるようならば、それはウツセミ憑きだ。故に嫌え、徹底的に』
「な、何で落とさなきゃいけないの!? お兄ちゃん変だよ!」
「理由は聞くな。可愛い妹には分からぬ事だ。頼む』
「嫌だ!」
「名莚流未よ。やれ』
「あ、い、いや。いや。いや。いやだ。いや。いやあやめてえええええええええええ!」
星の降りしきる夜に、宙を舞う。
美しい闇に、心を呑まれた。
耳をつんざく妹の泣き声に、声を奪われた。
遠ざかる景色に目を奪われ。
打ち付けた身体に意識を奪われる。
『これでよろしいのですか。本当に』
「……ああ、これが。正しい』
「タク!? ねえ、しっかりして、タク。やめてよ、ねえ、ねえ! お願い生き返って! お願い! 私を一人にしないで―――!」
…………目が覚めた。
もう涙は出ない。心の何処かで凍り付いてしまったようだ。今はその方が良い。一々泣いた所で、世界は俺に優しくならない。ベッドから降りて外へ出ようとすると、開けられない事に気が付いた。
―――そういえば、そういうお願いをしたんだったな。
操さんには木の板で俺の小屋を徹底的に外から塞いでもらった。釘を使って塞いでもらったので、工具でもなければ今日一日はこのままだ。食事を摂る事も鏡ゑ戯びに集まる事もかなわない。処刑は可能だ。無理やり壁を破壊すればいいのだから。
「ウツセミ様」
『またも悪夢に魘されておりましたな。名莚の子よ』
「もうそれはいいです。全部思い出したので」
鏡に映る俺が驚いた様な表情を浮かべる。笑うでもなく驚くでもなく、ただソレは寂しそうな目を向けてきた。
『そう仰るからには、己の真名を聞かせて頂きましょう』
「ナムシリ様」
より正確に言えば、名毮。他者から名前を毮る。それが俺に与えられた役割。名莚家が俺に望んだ力。鳳先生に聞くまでもない。その全てを何故だか知っている。鏡を通して己を知り、己を知っては全を見通す。
名莚家は、狛蔵を除く御三家がこの地を離れた後に生まれた家系だ。彼の言う通り、ここはかつて御三家も含めた隠れ里の様な場所だった。変わったのは水鏡が当主の意向でこの地を離れた後、火翠は報復の被害を少しでも抑える為に呪いを受けた者をこの地に残して何処かへと去った。残った狛蔵はこれ幸いと全権を握り、この下神を二つに分けた。
ウツセミという名の神様を踏みにじる、上神(うわかみ)
ウツセミと共に在り続ける事を強いた、下神。
彼の力はこの地全体に広がっている。上神に住む人間は鏡ゑ戯びを経ずともその恩恵だけを与れる。
「名莚家は火翠と狛蔵の追放者が集った家系。奴等はこの力なき者が集う場所で水鏡の様な強権を欲した。故に奴等が身内に行っていた制裁を真似た。それがいつしか魔性を帯びて、俺が生まれた」
『然り。ナムシリ様を生み出す為に数多もの子が犠牲になった』
ここではない異邦の地に、このような信仰がある。生まれた子供を人として育てるか、精霊として自然に還すか選択するというものだ。俺はこれに近い。アイを与えず、ヒトとして認めず、決して繋がらず。それで俺が生まれる。孤独で虚ろなナムシリ様の完成だ。
『水鏡家は愚か者にその名前を使わせず。ただしそれはしきたりに過ぎませぬ。ナムシリ様とは似ても似つかぬ』
「俺は名前を奪う。知った名前を支配する。それが孤独な俺が人と触れ合える唯一の方法だった」
名前は個人の存在証明だ。それを気安く奪う俺が歓迎される道理はない。だから皆、俺を嫌う。生きたいと願う全てのモノが、あまねく生者が拒絶する。
ドンドンドンドン!
塞がれた扉が強く叩かれる。ここには時計がないから分からないが、もうそんな時間か。あの英雄とかいう男がゲンガーであれそうでなかれ、俺の所に人は來る。ウツシを騙った代償は大きいのだ。
「タクミ! タクミ! 大丈夫か?」
「……泰河か」
「―――生きてるみたいだな。取り敢えず良かったよ。今日だけは色々と様子がおかしい。昨日までの鏡ゑ戯びと訳が違う」
「具体的には?」
「三人死んだ!」
扉越しに焦燥混じりの声が伝わる。只ならぬ事態なのは字面からも明らかだ。一夜一人の鏡ゑ戯びの前例を覆す三人。個人的に一人殺したので二人なら分かるが、残る一人は一体何処から湧いてきた。
考えられる可能性は二つ。
俺が一人殺して、ゲンガーが二人殺した。鏡ゑ戯び自体は人陣営の勝利なので前提は関係ない。
俺が一人殺して、ゲンガーが一人殺して、全く関係ない別の誰かが一人殺した。
もしも後者なら、大変だ。鏡ゑ戯びが終わった事は俺から直接伝えればいいだけだが、そうなるとこれ以降は―――疑心暗鬼が蔓延るだけのクローズドサークルだ。ゲームとは呼べそうもない単なるルール無用はゲンガーを炙り出す上で都合が悪い。極限状態に陥った人間がどうするかなど明らかだ。現に俺はやり玉に挙げられるのを防ぐ為に、英雄さんを殺した。
「……因みに、誰が死んだ?」
「英雄さんと、お前のお父さんと………………………………鳳先生だよ」




