操をたてる
鍋は家でもあまりやった事がない。
調理の工程も少なく済んで、主婦の手間としては随分楽な部類に入ると聞いた事がある。お姉ちゃんもこれくらいなら問題なく出来る。問題は味で、一口食べた瞬間にその食材の持ち味がマイナス方向に引き出されてワームホールも斯くやという亜空間の味が生まれる。意識が明後日の方向にぶっ飛ぶ癖に特別中毒性も無く、一度食べたが最後、二度と食べたくないという思いだけが全宇宙に拡散し、飛散して、流星群となって空を彩る。
だから昨夜お姉ちゃんが持ってきた時、俺は本当に感動したのだ。そこも含めれば二日連続で鍋を食べる訳だが、飽きてたまるか。肉なんてどう考えてもこれから先食べさせてくれるとは思えない。もうまともに狩猟が出来るのは操さんしか居ないのだ。
「おーいい感じに煮込まれてるなあ」
苗網家は囲炉裏付きの一軒家だ。火吹のついでで使った時のようなキャンプもどきではなく、ちゃんと囲炉裏鍋を使ってじっくりと煮込んでいる。床を切って灰の敷き詰められた昔ながらの設備はノスタルジアを内包しつつもその火力に衰えはない。キャンプもどきなんぞよりは余程上手に煮込めている。敷き詰められた野菜と肉の滾る匂いが鼻を擽り、空腹を否応なしに刺激する。
「めっちゃ美味そう……!」
『ぼたん鍋みたい』
「猪の鍋だっけか」
『肉の種類は見れば分かるよ』
「良く分かったねー」
話がややこしい。
アイリスがイヤホン越しに話しかけてくるせいだ。だからどうして俺の方からはテレパシーが出来ない。いや、これはテレパシーなのか。有線テレパシーはテレパシーと呼ぶのもどうなのか。良く分からないし分かる事もなさそうなので考えるのをやめた。
『匠与が好きなら明日から毎日狩りに行くよ』
それはやめろ。
戯びと全く関係なしに色々と危ない。猟銃なんて持ってないのに、まさか素手で狩猟をしようというのか。アイリスなら或いはという期待は、根拠不明の説得力を持ち合わせている。
「匠与君は濃い味が好き?」
「お姉ちゃんがイカれたセンスしてるので濃いとか薄いとかより美味かったら大丈夫です。あーでもここの料理って全体的に薄味なのばかりなんで出来れば濃い方がいいかな? 昔の感覚だけど」
「なら良かった。私も濃い方が好きなんだ。ここの料理は……何だろう。舌に合わなくて。口直しの意味も込めて大体濃くしちゃう。身体に悪いって言われたらその通りだけど、美味しいんだから仕方ない」
「それはそうですね」
食に強欲な人間はたかが健康の為にと配慮するのを嫌う。年を取って濃い味付けが駄目になると分かっていても、それが後々の寿命に響くとしても、今、美味しい物を食べられるなら犠牲は厭わない。事情は違うが俺もそのタイプだ。理由は察して欲しいし何なら説明したようなものだ。
「…………操さんって、昔からここに住んでる訳じゃないんですか?」
鍋の煮込みを眺めながら、何となしに尋ねてみる。操さんの目線が一瞬鋭くなったのを見逃さなかったが、俺を見てすぐにやわらいだ。
「……誰に聞いたのか知らないけど、そうだよ。私は元々ここに住んでた訳じゃない。かと言って元々住んでた場所を覚えてるって訳でもないけどさ」
「どういう事ですか?」
「―――うーんさっき一線超えちゃったし、私も話さなきゃ卑怯か。肉はそっちに譲るからじゃんじゃん食べて。ながらで話そうよ」
据え膳食わぬは男の恥……はまた意味が違うが、目の前にこんなご馳走があって放置していい訳がない。猪の肉なんて食べた事がない……経験はあるのかもしれないが味は忘れた……ので、彷徨う箸すら楽しく思えてきた。
たしかにここは外界と切り離されたクソ田舎だが、出稼ぎに出る連中や浮神から流れてきた品物もあるので、まるっきり古代という事はない。醤油とか砂糖とか塩とかポン酢とかタレとか。それくらいはあるし、鍋を囲むだけならそれくらいでも十分だ。
「美味ぁぁぁぁぁ…………!」
『美味しいね』
食レポなんてスキルはないのだが、この濃厚な脂と存外にさっぱりした味わいがまた絶妙に絡み合って箸が止まらない。多少臭いも硬さもあるが、それで止まるような美味しさであってたまるか。血の臭いに比べれば獣の臭いなど恐るるに足らず。硬さは食感を演出するのに十分だ。食欲は進み、ご飯は減り、会話も減る。
「……めっちゃ食べるじゃん。そこまで美味しそうに食べてくれるなら、わざわざ解体した甲斐もあったってもんだよ」
「はい本当にもう……凄いです操さん。、めちゃめちゃ美味しくてはい。狩猟を生業にする女性って素晴らしいですよね」
「私、口説かれてる? ……照れるなあ。まあそんな話はさておいて―――」
本気で褒めたのに、さておかれた。
操さんは尻尾のように編み込まれた髪を背中へ押しやり、慎重な面持ちで徐に話を始めた。
「――――――私ね、誘拐されたんだ」
夢中になってしまうような食事を止めるには相応のインパクトが必要だ。であれば掴みは上々。俺達の視線は野性的な臭いの残る女性へと向けられた。
「苗網操。それは本当の名前じゃない。前の家主が勝手につけた名前。物心つくかどうかって時に攫われたらしいから、詳しい事は良く分からない。でも確実に言えるのは、それは私の名前じゃないって事」
「本当の名前は?」
「思い出せる筈なんだけど、モヤがかかってるみたいでさ。全く思い出せないんだ。攫われたっていうのは家主が死ぬ前に全部ゲロったからなの。自分の子供が欲しかったなんて……おかしな話でしょ」
『死ぬ前に話さなかったら墓場まで持っていけそうだけど』
アイリスは分かっていない。死ぬ時とは誰しもが楽になりたい時だ。あらゆるしがらみから解放されたいと願う人間がどうして余計な出来事を背負い込むのか。死ぬ直前に話しても本人にデメリットはない。怒って殺そうにも泣いて貶そうにもとっくに死んでいるのだから。
俺達人間は、殺す以上の仕返しが出来ないようになっている。
だから死体になればそれまで。最強の勝ち逃げだ。
「今回の投票先で明らかになった通り、どうも私は匠与君より目の仇にされてる節がある。ま、暫くは君が引き付けてくれるだろうけど、万が一にも死んだら……次はどう考えても私の番だ。だからそうなる前に終わらせたいなって事であそこに……でも今日で終わらせるなんて出来ないみたいだし、君を誘ったのは実の所最後の晩餐みたいな節がある」
「最後の晩餐なんて…………狙われるとも限らないのに」
狙われるとも限らないし、狙われないとも限らない。決めつけるのは焦り過ぎだが心構えくらいはしておいてもいいかもしれない。
―――俺だって、死ぬかもしれないのだから。
「匠与君さあ、もし明日も私が生きてるようだったら、またご飯食べに来てよ。ご馳走するから」
「俺だけですか?」
「それは出来ればでいいよ。君のお姉ちゃんを連れてくるも良し、鳳先生を連れてくるも良し、泰河君の所は……まあ、無理か。用事が無いなら毎日。私が生きてる間」
理由なんて最早問うまい。俺には手に取る様に良く分かる。
自分を失って。
居場所を失って。
仲間を失って。
名前を失って。
残った感情があるとするなら、寂しさ。
操さんには、味方がいないのだ。だから仮初でも何でもその寂しさを埋める賑わいが欲しい。そんな所だろう。
「じゃあこうします。鏡ゑ戯びが終わって、その時まで二人共生きてたら―――その時は俺一人だけでここに来ます。アイリスもいいよな」
『近くには居るよ』
妥協はしてくれたみたいなのでそれで良し。操さんは年不相応に幼い笑顔をまた一瞬だけ浮かべて。
「…………ありがと」
彼女もまた、鍋の中に手を付けるのだった。




