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ドッペルゲンガーにアイはない  作者: 氷雨 ユータ
アイを知りたい神の子

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姉なる者

 昼間になると、食堂は地獄の様相を呈していた。神曲によれば地獄の最下層では罪人が氷漬けになるらしいが、この凍てついた空気に比べればまだ、罪の明確な地獄がマシなのではないだろうか。ダンテの様に直接地獄を見た訳ではないが、彼の詩人だって俺の境遇など知る由もあるまい。お互い様だ。

「…………」

 両次が消えてくれたお蔭で食堂に留まっても文句は言われないが、この重苦しい雰囲気に滞在したいとも思わない。でもお姉ちゃんの事が気になって離れたくない。他の人間が留まる理由は単に朝食を抜いたのでこれ以上抜く訳にはいかないという判断だろう。一食二食抜いたからと言って人間は死なないが、『食べる気がしない』という理由だけで抜き続ければ限界がやってくる。鏡ゑ戯びどころの話ではない、単純な餓死に帰結する。

「……お姉ちゃん」

「―――ごめんタク。今は話しかけないで。色々、あるから」

「う、うん」

 生き残った人間は全員が気まずい沈黙を保ったまま食事を待っている。椿さんも手が震えてとてもではないが料理を任せられる状況ではなかったので、何の因果か俺とアイリスと泰河の三人で昼食を作る事になってしまった。

 一人息子のアイツはいい。料理を仕込まれていても不思議ではない。問題は何故俺達が駆り出されたかだが、一番精神状態がマシだからとしか考えられない。


 いや、異常なのか。


 他人事という価値観は俺の中から薄れてしまったが、ゲンガー退治という名前の殺人を繰り返した事実は変わらない。殺人に対する忌避感がぶっ壊れてしまっている。お姉ちゃんが目の前で泣きながら死体を解体していたら流石に無反応とはいかなかっただろうが、単に沼へ突き落としただけだ。それの何に、どういう顔をすれば良いのやら。

「俺的には、お前が一番の異常者だと思うんだが」

「何がだよ」

 不機嫌を隠そうともせず泰河が言った。両次ほどの気難しさはどの住人も持ち合わせていないが、誰の目から見ても彼が苛立っているのは明らかだ。鍋を掻き回す手つきが乱暴で、今にも具材かスープが飛び出してしまいそうである。

「良く冷静でいられるなと思って」

「冷静なもんか! 勇兄ぃが死んで……ああそうだよ。俺達が殺したんだ。あの場じゃ邪魔だったのは確かだし……俺的には、お前はウツシじゃないって思ってるから」

「お前だけのせいじゃない。あの場で俺と操さんに投票した奴以外全員の責任だ。そう気に病むなよ。ウツシを引き当てない限り毎日続くんだぞ」

「お前って奴は……随分平気なんだな! 正直、昔のお前は嫌いだったけど……今はそれに加えて怖い。勇兄ぃがお前を嫌ってたのは皆知ってるけど、それだけで割り切れる様な事じゃないだろ……?」

「理解出来ないと思うならお互い様だ。実の兄弟でもないのに兄と呼ぶ神経が理解出来ない。理解しようという気もそこまでないんだが」

 大体昔はそんな風に呼んでたっけか。人数が減って結束が強くなったというなら結構。

 泰河の作ったスープにはワカメとほんの少しの豆腐しか入っていない。その他のメニューもご飯を除けば適当な野菜をスライスした詰め合わせだったり、魚のすり身をミートボールっぽく丸めた物だったり、病院食みたいだ。味見したアイリス曰く「うすい」そうな。やっぱり病院食だ

 こんな辺境に病人はいないものの、俺が個人的に不満なだけでそう悪い選択肢ではない。歯応えがなくて味付けも薄ければ当然身体にかかる負担も少ない。今は殆どの人間が直前の殺人で精神に変調を来している。食べられるなら吐き出して胃を空にするよりはマシだ。

 それとは別に、水っぽいご飯と歯応えの薄い食材が嫌なだけ。

「アイリス。悪いけど全員分運んでくれないか」

「わかった」

 こちらの事情に突っ込んでこないのが彼女の長所でもある。体よく人払いが済んだ所で、俺は厨房の端に立って壁に向かって話しかける。

「協力って……具体的には?」

「―――また、後でな」

 今日の戯びは終了だ。勇という犠牲を抱えて俺達はここに戻ってきている。そんな暗黙の了解を普通に破るつもりで話しかけた事がどんなに軽率だったか。遅れて気付いたが、幸い誰もが己の心を慰めている最中で不審には思われなかった。

 俺達の最大のアドバンテージは協力しそうにない事だ。お姉ちゃんとアイリス以外は誰も俺を庇ってくれない。その状況を全員が理解していて納得している所が大切で、この前提が崩れると俺にも殺される危険性が生まれる。

 ウツセミ様にまともな思考力があるなら当分俺は死なない。生きているだけで、発言しているだけで、参加しているだけで、たったそれだけで勝手にヘイトを買ってくれるのだ。ウツシが圧倒的に不利なルールで勝利を収めるには利用できるものを利用するしかない。

 そして俺に死ぬ可能性があるとすれば、全員から信用されてしまった時だ。そういう意味で流未は必要悪ともいえるし、俺が配膳しなかったのは彼女の為とも言える。アイリスは典型的な余所者だが彼女には底知れぬ魔力というか圧力があるので、きっと無事に自分の役目を果たしてくれるだろう。


 ―――次から俺が殺せば、お姉ちゃんも元気になるのかな。


 意識的に『他人事』と思わなくたって、この程度で心は痛まない。元々嫌いな人間を殺すだけの仕事だ。

「タクミ。操さんにご飯渡しにやってくれないか?」

「ここに居ないのか……でも膳持ってくのは馬鹿みたいだな」

「馬鹿! おにぎりでいいんだよそこは。操さん、何でか知らないけど票持ってっただろ。投票したのは誰だっけ、黒龍と春夏と……お前?」

「俺に投票権は無かったよ。無かった事にされたって方が正確かな。俺のお父さんだよ」

 原則、どんな事があっても票を奪うという行為は不可能だ。それでは人間の内輪もめでゲームが崩壊するという可能性を生み出してしまう。それでもお姉ちゃんがどさくさに紛れて俺から投票権を奪ったのは今後を見据えての事だと思っている。

 投票先が戯びの結果として実らなかったとしても、その人に投票した事実は全体に共有される。俺が誰かに投票すれば後々引きずるのは確定的だ。流未に入れればまだ被害は小さい方だが余計に彼女の反感を買って戯びを混乱させる事になりかねない。だから流れを利用して投票させなかった。

「そうだっけか。その件で不信感持ってるみたいでさ、特に投票した三人と同じ場所に居たくないらしいから。頼んだ」

「俺なんて素面で嫌われてると思うけどな」

「あの人は元々余所者だから、蛇蝎の如く嫌うって事は無いと思う。俺も終わったら向かうから、頼んだ」


 …………どういう事だ?
























 追い出される様に食堂を後にする。気が付けば後ろからアイリスがトコトコついてきていた。行動を共に出来るのは嬉しいがたまに心臓が止まりそうになる。足音もなく忍び寄らないで欲しい。

「えっと。出前に行くだけなんだが」

「ついていく」

「気まずいかやっぱり」

「はなれたくない」

 誰かこのゲンガーに建前という概念を教えてくれる心優しい人間はいないものか。常に剛速球で表現するせいで顔周りの血液が沸騰しそうだ。火というより熱、融けるのでは? 自嘲するように微笑みながら重い足取りで苗網家を訪問してみたが、そこに家主の姿は無かった。

「…………アイリス。お前の能力で何処に行ったか分からないか?」

「それはなに」

「ゲンガーって本物になりきろうと思わなきゃ妙な力出せるだろ。あの致命傷治したのだってそれだろ。なんかそれでいい感じに出来ないか」

「やってみる」

 やってみるって何だ。

 アイリスは紅い瞳を家の周囲に巡らせて、それから俺の方を見た。視線が明後日の方向を捉え、直に虚空を見つめ、最後に瞼の内側へ閉ざされる。

「むりだった」

「…………いや。自分の出来る事くらい把握しておけよ!」

 無茶ぶりを言い出した俺も俺だが、出来もしないのに取り敢えずやろうとするアイリスもアイリスだ。特殊能力は努力どうこうの問題ではなく、出来るか出来ないかの問題だ。挑戦という時点でおかしいと思っていたがやはり出来なかったようだ。

 つまりゲンガーとて何でも出来る訳ではないらしい。存外、人間には近いのかもしれない。


 ―――まあいいか。


 約束を破る形にはなるが、本人不在では守りようが無かったという事で俺の用事を済ませよう。まともに管神だけで移動しようとすると苗網家は中心から大きく外れていて移動が不便だが、一旦森に入って道なき道を強引に経由すればショートカットも十分可能だ。特に外周に建てられた名莚屋敷やその傍にある彩島家に行くならこれ以上の道筋は無い。

 インターホンなんて便利な物はないので、扉を直接叩いて訪問を知らせる。書物の落ちる音が聞こえてから少し。扉が開いた。

「おや、君は」

「詠姫お姉ちゃんの弟です。鳳先生、お時間よろしいですか?」

 個人的な用事とは、鳳先生にあった。泰河は忙しさからか混乱からか気付いていなかったが、彼も食堂には居ない。管神に居る人間の中で唯一平然としていたのは彼だけだ。恐らく空気を読んで自主的に離れたのだと思われる。

「構わないですが、先客が居ます。構いませんか?」

「先客?」



「私が先客だよ。話すのは初めてだっけ? 匠与君」



 空元気だろうか、操さんが手首を無造作に振って俺を歓迎していた。

もう一話出します。

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