鏡ゑの戯宴
初めて、夢を見た。
遠い遠い昔の記憶。
『████様。貴方は今日から████様なの。ヒトではなく、████様。私達とは違う存在。だから決して名前を呼ばないで。貴方とは誰も繋がらないし、誰も貴方をアイさない』
誰が言ったのかも思い出せない、物心のついた前後での発言。頭蓋骨から自我というものが引っこ抜けた様な感覚。形成される前の人格が垂れ流され、潰れていく記憶。四畳半の狭い世界が、俺にとっての全てだった。
布団もなければ誇りも無い、綺麗なだけの畳部屋。虚無を内包した世界の外には鉄の棒が立ち並んでいて、進めなかった。生まれた時から俺はアイを知らなかった。アイを作れなかった。誰もそんなものはくれなかった。
食事は二食。どれも残飯だ。冷えていたし、汚れていたし、濁っていた。食べても食べなくても回収されるものだから、食べるしかないと思った。生物の本能に基づいて生きる事を選択した。誰の庇護下に入るでもない。
いや。
当時の俺は、それが二人のアイだと思った。アイアンメイデンの様な苦罰の保護こそを証拠と信じて生きようと思った。自分の名前が何なのかも分からないまま。喋り方も分からないまま。
『もしもーし。タクミ君?』
名莚詠姫―――お姉ちゃんと出会ったのは、その最中の事だった。
感謝などと生温い言葉では表せない。お姉ちゃんは俺に全てを教えてくれた。名前も、喋り方も、文字の書き方も読み方もスプーンの使い方も箸の使い方も朝と昼と夕方と夜の事も。
俺が人間である事も。
鉄格子を境界線に俺達姉弟は逢瀬を重ねた。昔から知られている様な童話なんかは全部お姉ちゃんから聞いた。桃太郎も金太郎もしらゆき姫もかちかち山も。お姉ちゃんが寝落ちするまで読んでくれて、俺が起こすまで一緒に居てくれた。
『そろそろちゃんと呼んで欲しいかも。タクミはさ、いつもうたひめさんって呼ぶでしょ?』
『―――だって。年上はそうよぶんでしょ』
『そうだけど、家族でしょ? 私も良い感じに呼ぶから、お姉ちゃんってくらいには呼んで欲しいかな。ね、タークッ?』
かぞく。
その意味を俺は知らなかった。知らない物を受け入れる事は出来ない。分からない事を聞けば何でも教えてくれるお姉ちゃんだったけど、その意味を聞いたら、今までの関係が壊れる様な気がして―――
『……………お、おねえちゃん』
『はい合格~。そんな素直な弟にはなでなでしてあげよう! ……この鉄格子、本当に邪魔だよね。私はもっと傍で、貴方を抱きしめてあげたいのに』
俺はかぞくを受け入れた。
アイを作ったのはお姉ちゃん。
アイをくれたのはお姉ちゃん。
かぞくとはとても大切な人の事だと思っていて、きっとそれは間違いじゃない。けれども世間の思う様な意味とは確実に違う。
だから今度は問うてみよう。
アイって何だ?
、本当にそれは、アイしてるのか?
「おねえちゃん」
寝覚めも感傷もなく、俺は目覚めた。今の景色が夢だと分かっていても、鉄格子の先にある笑顔を独占したかった。抱きしめたかった。温もりが欲しい。ヒトとの繋がりが欲しい。それは我儘か?
ただ、アイが欲しいだけなのに。
女の子を抱きしめると、身体が温かくなる。その柔らかさが好きになる。けれどもあの時感じたアイはない。お姉ちゃんが抗議してくれたお蔭で座敷牢から出られるようになったあの日の。
「…………」
これ以上は駄目だ。意識的に『他人事』と切り離し、冷静になる。軒下に吊るしたランタンの火は消えている。水を張った桶は何事もなく静かに揺れていた。取り敢えず三つのルールは守った事になる。記憶が正しければこの水は処分しなければならないので、これで顔と、ついでに身体を大雑把に洗った。朝風呂みたいものだ。単なる水だが。
鏡に向かってお辞儀をする。
「おはようございます。ウツセミ様」
『良う眠られておりましたな?』
ウツセミ様は自己像だ。それ故に、あちらから話しかけてくる事はない。俺が俺に向かって話しかける構図を作って初めて、ソレは会話をしてくれる。
「夢見を守るって話、違くないですか? とんでもない悪夢を見たんですけど」
『己も騙せぬ嘘は感心出来ませぬ。名莚の子はその記憶をとても愛おしく守っておられると、相違ございませんな?』
「………………貴方は。一体」
『名莚の子は封印の長きあまりに忘れておられるご様子。全てを解決したいとお思いであれば、時に我を通して向き合う事も大切でございますぞ』
思い出していない事があるというのか。
それはきっと思い出したくない事だ。お姉ちゃんがしてくれた封印とは無関係の、俺自身が不要と断じた記憶。きっと草延匠悟を形成する上で絶対に要らないと確信したのだろう。言うなればそれは、俺自身からかけた封印。
自分がまともだと思い込む上で不都合だった、真実の記憶。
「思い出したくない」
『ならば、管神の地を去ればよろしい』
出来ない事を易々と言ってくれる。俺がお姉ちゃん無しで生きていける訳ないだろう。名莚がここ以外の場所で生きられる訳ないだろう。もし違うなら、俺は一体何の為にドッペル団の二人に対して背を向けたのか。
『さあ、外へ行かれよ。仲直りをする好機やもしれませぬ』
言われた通り、外へ出る。雨上がりの空は赤みを失った曇天模様に変わり果てていた。またすぐにでも雨が降り出しそうだが、それは昨日逆の事が言えた。雨の降る気配なんて無かったのだ。よって俺の予報は当てにならない。
昨夜の土砂降りで至る所の地面がぐちゃぐちゃになっている。名莚屋敷の方に変わった事はなさそうだが、気のせいだろうか。人が集まっている気がする。
「おはよう」
「うわぎゃッ!」
音もなく背後を取られ、慄いた。アイリスだと気付くのに時間はかからなかったが、何故後ろを取るのだろう。挨拶なら面と向かってしたかった。
「……アイリス。昨日から寝っぱなしだったけど体調悪いのか?」
「ゆめをみてた」
「珍しいな。どんな夢だよ」
「あなたといっしょにねむってた」
夢?
夢なのかそれは。あの時も俺達は外で昼寝をしていたので、すると彼女は現実でも眠っていて夢の中でも眠っていた事になる。寝るの大好きか。多分大好きだ。
「あなたはねむれなかったの」
「多分ぐっすりだったよ。何でだ?」
「ないたあとがあるから」
顔を洗ったのは誤魔化す目的もあったのだが分かるものなのか。涙の道筋なんてそれこそ水分でしかないのに何処に違いがあるのだろう。お姉ちゃんにもアイリスにもそんな情けない表情は見せたくなかった。その紅目が今だけ恨めしい。
何となく抱きしめるも、アイリスは抵抗しなかった。持ち上げても同じ。傍から見れば物凄く不健全な瞬間に見える持ち上げ方でもまるで抵抗しない。
「……ゲンガーって全員体重軽いのか?」
「そうでもない」
じゃあ何でお前は。そう尋ねようとして口を噤む。答えを聞いたら遠くへ行ってしまいそうな予感がしたのだ。花暖の様な別れ方だけはしたくない。ああいうのは本当に心を蝕む。
「タクッ」
アイリスと適当に駄弁っていたら、食堂の方からお姉ちゃんが走ってきた。昨日と変わらずの白い浴衣をこのぬかるみの中汚さずに走るのは最早神業である。下駄なので流石に速度は知れているが、問題はそこではない。何故か青ざめている事だ。
「おはよう。お姉ちゃん」
「あ、お、おはよう。って違う違う。何もなかった!? 変な事とか無かった……よね」
「ヘンな事……何もないけど。何で?」
彼女はホッとした様に振袖を体の前に持ち上げて、にっこりと微笑んだ。
「……良かった。タクじゃないんだ。愛莉栖ちゃんもその様子じゃ違うみたいね」
「ごめん。全然意味が分からないんだけど」
「ここで説明するとまたなんか言われそうだから、後でね。私は他の皆に確認しに行ってくるから、早く食堂に来てね。一応案内しておくと」
「凄く目の前だから要らないよ」
「そりゃそうだ。じゃ行くね」
お姉ちゃんは去って行ってしまった。方向から察するに彩島家へ向かったようだ。
―――何が起こってるんだ?
アイリスと顔を見合わせて、互いに心当たりがないのを共有する。ウツセミ様に聞いても教えてはくれないだろう。あれはそういう性格だ。わざわざ遅延をかけて向かう理由がないので一直線に食堂へ。
「おはようございます、匠与君」
真っ先に俺を出迎えてくれたのは鳳鳳先生だった。それに続いて取材陣の二人と椿さん、勇が挨拶をくれた。お姉ちゃん程ではないが彼も中々人望があるようだ。尤も、それとこれとは話が別らしく、俺の存在などお構いなしに何事かでまた揉め始めた。
「これ、一体どういう事なんですか鳳先生?」
「私達は何も聞いていないけどねえ」
「全員が集まってからじゃないと効率が悪いので、今は落ち着いて朝食でも食べましょう。僕はここの豚汁……豚? 宍汁が好きですよ」
俺が来たから険悪な雰囲気という訳ではなさそうだ。取材陣二人は困惑。椿さんや勇も戸惑いを隠せない。何か知っていると思われる鳳先生に至っては軽いのは口だけで真剣そのものな表情をしていた。
「鳳兄ィ!」
「うわっぷぁ」
入り口に突っ立っていた俺が悪い。春夏が押し退けて入るや、泣きながら鳳先生に飛びついた。少し遅れて食堂の二階から泰画達が降りてくる。三人とも、首を寝ぼけ眼を擦って首を傾げていた。
状況を整理しよう。
ここにいる殆どの人間は状況を呑み込めていない。現状で知っていそうなのは飄々と構える鳳先生と春夏。それに慌ただしく走っていたお姉ちゃんくらいだ。ノイズになっているのは勿論お姉ちゃんで、長い間ここを離れていた彼女が何か知っているとは考えにくい。
「てめぇら。メシ片づけたら直ぐに集会所へ来い」
銀造先生を思わせる高圧的な態度。
勝手に仕上がった肉体に年齢が比例しているのか、筋肉と皴の見分けが難しい屈強な身体。
見るモノ全てに敵意を差す黒い瞳。
黒い甚平に袖を通す老人は、孕んだ怒気を吐き出すように告げた。
「ウツセミのたわぶれじゃ。戯びが始まる」
しっとり姉弟




