ノスタルジアフレンド
ウツツセ沼から帰還する途中、壮年の男性がこちらに向かってきた。身長は一八〇を超えようかという長身で、その体つきは金剛力士を思わせる筋骨を纏っている。農作業で鍛え上げられた土塗れの肉体は斯くも逞しいものか。ここを離れて久しいが、名莚に戻ってからは過去の記憶が随分鮮明に思い起こされる。
お姉ちゃんの背後に隠れると、意図を察した彼女が左手を広げて静止を求めた。男性が身振りに応じて足を止める。
「おう。帰って来たってのは本当だったのかお前等。知らねえ奴も居るが、こりゃどういう事だよ」
「色々と訳ありなんだよ勇さん。これからまた住む事になったから宜しくね」
陽久瀬勇。
お姉ちゃんは殆ど敬語も使わずに喋っているが、管神の中ではギリギリ年長者の部類に入る。働き盛りの男手という意味なら序列は一位だ。管神のリーダーはまた別に居るが、実質的にカリスマを持っているのは誰かと言われたら彼になるだろう。俺は嫌いだが、他の人から嫌われている姿を見た事がない。
「おめぇが帰ってくるのは歓迎だ。匠与の野郎も……ちったあマシな顔になったな。他のモンは知らねえが俺は歓迎するぜ。色んな仕事回してやっから覚悟しろよ?」
「…………宜しく」
「嫌わないなんて珍しい事するじゃん。そっちこそどういう風の吹き回しなの?」
「まあ、色々あってな。男手が欲しいんだ。詳しい事はまた後で話す。それよりもそこの知らない奴だ。詠姫、何で余所者まで連れてきた?」
俺よりもアイリスが拒絶されるか。離れている内に何があったのだろう。話し合いにはどうせ入れてもらえないので推察するしかないとして、当の本人は剥いた敵意に我関せず、ずっと俺の方を見ていた。理由については誰も知らない。強いて言えば俺の傍に居たいから……自分から言う理由ではない。物凄く恥ずかしい。
ともかくそういう理由だろうから、何故も何も俺のせいだ。昔みたいに俺を嫌っているなら少しは配慮する気にもなったが、こういう方向になるなら話は別だ。
「別に、誰連れてこようが俺の勝手だろ」
「ん?」
「こんな限界集落、余所者を受け入れなかったらどうせ滅ぶんだ。なら少しでも人口を増やしてやろうって俺の粋な計らいに感謝こそすれど文句を言う筋合いはない。大体食堂前に止まってた車は何だよ。ナンバーからしてあれも余所者だろ? そいつらは見過ごしてこっちは見逃さないってのは不公平なんじゃないか?」
お姉ちゃんを通り抜けて、目線を大きく上に移す。喧嘩になった日には瞬殺だ。遠慮なく叩きのめされるだろう。勇はじっと眉を顰めていたが、それから困ったように溜息を吐いた。
「外の作家が取材に来たんだよ。レポーターみたいな人を連れてな。うちは観光地でも何でもないから何をしに来たかさっぱりだが、それくらいは別に断る理由もねえ。上の奴等に許可は取ってるらしいしな。だがそこのお嬢ちゃんはお前と一緒でここに住むんだろ? 不公平でも何でもねえよ」
「管神の為にならない」
「…………まあ、俺はいいけどよ。爺ちゃんが何ていうか……」
反論出来なかったか。
ここの住人はこんな場所でも管神が大好きだ。その一方で余所者を排斥したがる閉鎖的な感覚も持っている。その刺々しさが管神の為にならないという自覚があるからこそ勇は引いた。他の人はどう思うか、なんて責任逃れして。
―――昔は歯向かう気もしなかったんだけどな。
外に行ったお陰だろうか。
険悪な雰囲気一歩手前で収束したのを見てお姉ちゃんが露骨に割って入った。
「ねえ勇さん。他の人達にも挨拶したいんだけど何処に居るか分かる?」
「学校に行ってる奴等以外は食堂に居るんじゃねえか。もうそういう時間だ。俺はその……何だ。何でもねえよ。お前達の顔が見たかっただけだ―――それとたく坊」
「ん?」
「詠姫にべったりだったお前が随分変わったじゃねえか。今までの事だが…………悪かったな。これからはもっと気軽に話しかけて来いよ」
そう言ってすれ違う様に勇は沼の方へと歩いて行ってしまった。残された俺達は互いに顔を見合わせて、特にお姉ちゃんとは怪訝そうに首を傾げた。謝罪された事についてではない。明らかに態度が軟化しているのが妙なのだ。
ゲンガーのせいで疑り深くなったと言われても反論出来ないが、それはそれとしてあまりにも折れるのが早い。俺の知る勇はもっと頑固で一途で……いや後半は合っているかもしれない。まだお姉ちゃんの事が好きならだが。
「こりゃ、何かあったね」
「俺は知る由もなさそうだ」
「お父さんとお母さんなら何か知ってるかもね。もし分かったら夜にでも話しに行くよ。さ、食堂の方へ行ってみる? それともあんまり立ち寄らなそうな場所にでも行く? 愛莉栖ちゃんかタクが決めていいよ」
過去の都合上、誰も居ない様な場所が好きだったが、それだと一生挨拶回りの終わる気配がしないのでとっとと食堂へ向かう事にした。他にもウツツセ沼の様に特筆すべき場所は幾つかあるのだが、それは全ての挨拶回りが済んだ後でゆっくり二人で回ろう。もしくはお姉ちゃんも加えて。
「おはよんちは~顔出しに来ちゃいました~」
「あらあら、帰って来たとは聞いていたけど、本当に来たのね。いらっしゃい詠ちゃん」
店の暖簾を退けて軽い調子にお姉ちゃんが先に入ると、割烹着を着た中年の女性がお玉を片手に飛び出してきた。勇とそう年齢は離れていない筈だが、筋肉の差だろうか。控えめに言って身体に年齢が表れている。そうは言っても本人なりに身体のケアはしているのだろう。小皺やシミなどは粗さがしをしようと思わなければ見当たらない。
「……あら、匠与君も来たのね」
「―――はい」
静谷椿。この鎮谷食堂の一端を担う人だ。アイリスには言い忘れたが住人は基本的にここを使って食事を摂る。こういう助け合いの精神を忘れていたから、自給自足の意味について補足を加えたのだ。今に思えば適材適所と言った方が語弊が無かった気もする。
静谷夫妻は管神の中ではラブラブ夫婦としても有名で、彼女の夫は座敷牢に幽閉されていた俺にさえ惚気を披露する始末。例によって嫌いだったが、本当に俺が代わったのか周りがおかしいのか。歓迎の雰囲気こそ感じられないがさりとて敵意もない。
調子が狂っているので、ここはお姉ちゃんに任せよう。
「他の人は来てる?」
「ごめんなさいね。さっきまで朝食を食べていたのだけれど……ああ! 今はお客様が二階の方で子供達に色々とお話しして下さっているの。呼びましょうか?」
「いや、こっちから行きます。椿さんはこの女の子について何も聞かないんですか?」
「新しく住んでくれる人とは聞いてるわよ。管神を好きになってくれたら嬉しいけど、詠ちゃんが居るならきっと大丈夫よねえ」
「そうですか。タク、愛莉栖ちゃん。二階に行くよ」
―――何だこの感覚は。
椿さんとは直接の接点がないので他の人よりは嫌う気にもなれないが、それにしたって穏やかすぎる。名莚匠与だけは嫌われている筈。気のせいという線もない。対応が比較的柔らかいというだけで煙たがられてるのは何となく分かる。素直になれないだけというより、積極的に排斥する気にもなれないだけのような。
考えるのは後だ。二階へ続く階段は段差が高いし廊下は非常に狭い。何故か部屋の扉が外開きなせいで俺達の来訪を知らずに誰かが部屋を出ようものなら目の前に壁が生まれてしまって―――
「うわッ!」
先頭を歩くお姉ちゃんが被害に遭ってしまった。ただし頭より先に胸の先がぶつかったお蔭で痛みを訴える様子もない。
「ウタ姉!?」
「詠ッ」
「詠お姉ちゃんだッ」
「ウタヒメマジで帰って来たのか」
部屋の奥から子供たちの声が聞こえる。学校に行っている筈では……?
「ああ、これは申し訳ない。全く気づきませんでした」
廊下に行き止まりを作った張本人の声に聞き覚えはない。顔を見れば思い出せるだろうと高を括っていたが、やはり分からなかった。挨拶に回りたい人々を差し置いて、俺より少し年上くらいの男性が恭しくお辞儀をした。
「全員に挨拶をしたつもりでした。失礼、僕の名前は天倉鳳鳳。ペンネームです。外の方では作家をやらせてもらってます」




