忌むべきは地か血
「タク。起きて」
「………………」
「おきよう」
「……大丈夫。起きてる」
ただし寝ぼけてもいる。窓の外を眺めると、まだ景色は動いていた。まだ到着してもいないのに起こしたという事はもうそろそろか。辛うじて残っていた近代都市っぽさはすっかり消え失せて、道路を除けば辺り一面に森が見えるようになった。寝ぼけ眼に起き続けるのは中々どうして気分が悪い。座席に掛けてあった霧吹きを自分の顔に掛けたが、目が覚める様な効力は無かった。視界が開けない。
「何で起こしたの?」
「管神に戻ったら―――タクは今の所外に戻る気はないんでしょ。だから最後のご飯を食べさせてあげようかなって」
「ああ、そういう……」
お姉ちゃんは本当に優しい。俺みたいな奴の為にここまでしてくれるなんて。故郷の料理が不味いとは言わないが、久しぶりに食べるとなにぶん舌が受け付けるか分からない。名莚関係なく嘔吐する可能性がある以上、今の内に腹を満たしておくという考えはそう悪いものではなかった。
ルームミラー越しにお姉ちゃんがこちらを見ている。何故かその視線はやや険しかった。
「タク。幾らその子が鈍いからってそれはどうかと思うよ」
「え」
「左手」
言われてから自分の手を見遣ると、アイリスの胸に手を置いていた事に気が付いた。それもただ置いているだけならまだしも寝ぼけるあまりいい感じの手すりだと誤認したのか、谷間に指を突っ込む形で置いていたのだ。杖の様に握っていたと言えば分かりやすいかもしれない。
「うわわあああああごめん! はい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
これは俺だけかもしれないが、お湯や水のような外部刺激では目が覚めない癖に、何か不味い事をやらかした自覚をした途端に目が覚めるのはどういう原理なのだろうか。慌てて手を離しても彼女は無表情できょとんとしていた。
「なにが」
「え……ああ。いや。うん…………」
「へんなの」
アイリスが凄くズれている子なのだと再認識した。現実離れした瞳の輝きはそのまま価値観にまで影響しているのか等と邪推してしまう。紅い瞳がじっと俺の顔を見上げている。見つめ合うのに耐えかねて彼女の眼を隠した。
「ちょっと何処かで車止めよっか。助手席にお弁当あるからご勝手にどうぞ」
「わたしがとる」
久方ぶりに俺の膝から起き上がるアイリス。助手席に手を伸ばしてレジ袋を取ると、そのまま俺に渡してきた。
「どうせなら広く食べようか」
お姉ちゃんの使う車はかなり大型で、後ろの方にかなりのフリースペースが存在する。椅子を倒せばちょっとしたベッド……は言い過ぎだが、寝転がっても問題ないくらいにはなる。運転中にやろうとすると勢いに飛ばされて何かしらの事故が起きる可能性は否めない。詠姫お姉ちゃんが路肩に止めるのを待ってから実行した。
「どれにする」
「一番高いの」
「タクも強欲になったもんだ。昔は何でもいいとか言ってたのに。ふふッ、嬉しい成長だけどね。人間って感じがする」
「これがたかい」
全く張り合わないアイリスに拍子抜けしつつ本当に一番高かった焼肉弁当を受け取り、運転席から離れたお姉ちゃんも交えて三人で小さな食事会を開いた。広いと言っても囲もうとすると窮屈でもっと広い場所など幾らでもあるが、俺にはこれで十分だった。
「それにしても愛莉栖ちゃんはタクの何処を好きになったの?」
「せつめいがむずかしい」
「そんな複雑な理由なんだ」
「ちょっとお姉ちゃん。俺がめっさ恥ずかしいからやめようよこの話。密室だから逃げ場もないしさ」
何故逃げるのかと言われてもそれはそれで説明が難しい。単純に言ってしまえば恥ずかしいからだが、一概にそれだけでは語れないという確信がある。
「そう? でも好きになった理由は大事よ。だってそれが分からないままだと拗らせるかもしれない。自分が相手を好きだと気付かないままする行動って結構やばい事になったりするから」
「マホさんもそうだけど、何で一々含蓄がある風なんだ?」
「そばにいたいから」
空気を読まなかったアイリスのせいで物凄く恥ずかしくなった。無性に逃げ出したくなったので扉に手を掛けようとした所をお姉ちゃんに止められた。自分が蒔いた火種にも拘らずアイリスは無機質にそのやりとりを眺めている。
「たくみのこきょうはどんなばしょ」
「え? ……そうだな。ついて来たんだからそれくらいは説明しないとな。お姉ちゃん、いいよね」
「ん。でも一応言っておくけど、ここまで来たからには最後までついてきてもらうよ。往復しなきゃいけないの怠いし」
「わかってる」
「んーでもどう説明すればいいかな。俺達の住んでる場所は『浮神』って場所だ。集落というか町というか村というか……分類が良く分からん。でも二か所に別れてる。本当に浮神って呼ばれてる場所は上の方だ。そこならまだ近代的な方で、田舎とは言うが、ぶっちゃけ前いた場所とそんなに変わらない」
因みにこれも語弊があるが、アイリスはあまり気にしそうもないので省いた。具体的にはビルやマンションの様な建物はほぼ存在しない。むしろ普段は見かけないような木製の長屋やプレハブ小屋の様な物があって、人によってはノスタルジーを感じる場所でもある。観光目的に訪れる人間も居ない訳ではない。一応、名物的なスポットはあるし。
「私とタクが戻るのは浮神の奥から行ける下の限界集落。地図じゃ浮神で一括りにされてるか存在してないかな。馴染みは無いかもしれないけど管神って呼ばれてる」
「どんな場所かってのが説明しづらいな。強いて言えば、仲間意識が強いからよそ者にはいい顔をしないくらいだ」
「あぶないの」
「いや、私が居る限りは手を出させないよ。ただどうしても居なくなる時はあると思うから、その時はタクを宜しくね?」
「わかった」
アイリスは空になった弁当をお姉ちゃんに預けると、俺の両手を優しく握って、その美しい瞳で語りかけてきた。
「わたしがまもる」
「……少しは悩めよ。ゲンガーがどうとかそういう不安はこっちに比べたら無いと思うけど、危ないのは確かだぞ」
「かんけいない」
「他人事みたいに言うなってば」
「あなたをうしなうよりはいい」
一々大袈裟な発言をしてくれる。これ以上俺が、何を失うと言うのか。殆ど全て捨て去って、残った者は失いそうにない関係ばかり。故郷はクソだがそれでも故郷に変わりはない。最低限は守ってくれるだろう。そう信じない事には何も始まらないし、行きたくなくなる。
「……ゲンガーってのが何なのか私には詳しく分からないけど、マホから何か聞いた?」
「興味ない感じだったよ。それが?」
「―――いや、何でもない。ごみを捨てたら出発するんで、精々イチャついてな」




