מִּגְדָּ֑ל בָּבֶ֔לよりבאהבה
今章 終了です。
俺の名前は草延匠悟。
草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。草延匠悟。
その名前は、お姉ちゃんが考えてくれたものだ。
『私これから中学校に行って先生に相談してくるから。それが通ったらそう名乗るんだよ? 分かった?』
『偽名が大丈夫かって? 大丈夫大丈夫。別に私達は犯罪者って訳じゃないんだ。先生にお願いしに行くんだよ。書類・事務上の手続きは本名で構わないから、口頭で呼ぶ際やテストの答案返す時みたいに衆目に晒される状況の時だけはこの名前を使ってくださいって。先生のパソコンのデータが合法なら偽名だって問題なしに決まってらあ。弟君もそこは徹底してね。出席名簿を見たくらいじゃバレる事ないから』
なぜそこまでするのか。それは俺の本当の姿が嫌われているからだ。いや―――俺の血が、そうさせているからだ。だからお姉ちゃんはまともな学校生活を俺に送らせる為に手を尽くした。そのお陰で先生以外の全員が俺を草延匠悟だと思ってくれた。職員室のパソコンを盗み見ない限りこれは覆らない。俺本人でさえも、自分の名前に触れてこなかったお陰ですっかり忘れていた。
それは嘘だ。忘れていたんじゃない。思い出したくなかっただけだ。草延匠悟じゃなくなれば、築き上げた全てを失う様な気がしていた。それも違う。思い出せなかったのだ。俺の胸に生えていたあの楔は―――お姉ちゃんが入れたものだ。
辛い事を思い出さないように。
思い出しても、実感が湧かないように。
昔を昔の記憶として、乗り越えられる様に。
マホさんが言ったように、俺はそれをアイだと思っていた。だからすべて受け入れて、新しい人生を始めたのだ。
―――胸の奥から、中折れした楔が這い出して来る。
『隠し子』によって破壊された楔は、とうにその役目を失っている。これ以上は要らない。これ以上は―――隠せない。楔を自らの手で引っこ抜くと、跡形もなく消えてしまった。
「答えたくない」
「理由は?」
「嫌われたくないから。そこに居る草延匠悟なら話してくれるんじゃないのか? 本物なんだろ?」
草延匠悟は黙っていた。喚くも悪手黙るも悪手。最善策は真実を話す事だけ。俺とお姉ちゃんが守って来た秘密を話せるものなら話してみろ。そんな意地悪を抜きにしてもやはり話せない。偽物の人格で偽の名前を名乗り続けた俺からは、今や自己が失われていた。俺にはもう資格がない。己を証明する権利も……その名前を口にする勇気も。
「うそつき」
膠着する現場に現れたのは、現実離れした輝きを放つ紅目の持ち主。愛莉栖、またの名をアイリス。行先は伝えていなかった筈だが、どうやってここに来たのだろう。瞳が特徴的故、朱莉も彼女の事は覚えていた。遅れてレイナが臨戦態勢に入るも、アイリスは意にも介さず俺の目の前まで接近してきて、じっとその瞳をこちらに向けた。
「たすけようとおもったのに」
「………………アイリス」
「うそつき」
「…………だますつもりはなかった。心地良かったんだ。ゲンガーゲンガーゲンガー。偽物との戦い、俺達以外は誰も気づいてない。人類の為に悪人を演じる。ドッペル団として悪名をとどろかせる」
「うそつき」
「日常とはかけ離れた事ばっかりやらされて精神的に参ってた。お前を助けた時、俺はほんの少しだけ日常に帰れた気がする。そんなお前が助けに来てくれた時、俺はすごく嬉しかった。善行が実を結ぶ事なんてあるんだなんて。自虐的にも思った」
「うそつき」
「お前は優しくて、不器用で、それでいて甘えたがりで。今まで見てきたゲンガーとは全然印象が違った。お前みたいな奴が居るなら、ゲンガー殲滅なんて悪行なんじゃないかとも思った」
「うそつき」
「―――本当の名前を知れば、お前もどうせ俺を嫌いになる。嘘を吐いたお詫びに、殺してくれ。お前が直接殺してくれるなら、心の底から悔いはないって言える。花暖の所にも行ける気がするよ」
最後の誠意。
俺がオレだった時間をただ純粋にアイしてくれた女性に見せる正直な願い。アイリスは更に距離を詰めて―――
「ばーか」
そう言って縛られている椅子ごと俺を押し倒し、抱きしめた。
「――――――ッ!?」
「え」
「え……?」
剣呑な雰囲気を一蹴するかの如き大胆な行動。何処まで行っても彼女は周囲の状況など気にしないらしい。身体の自由が効かないので、俺も無抵抗で受け入れるしかなかった。
「ごめんね」
「な、何が」
「わたしもうそつきなの」
「は―――は?」
イヤホンを片方取って耳につける。いつの間にか縄は外れていた。
『貴方が本物の人間だって知ってたの』
「……眠らなくても喋れるのか」
『かなり無視してるよ』
「……嘘ってのは?」
『花暖が貴方を好きになった理由は自分を認めてくれるからだよ』
「………………え? いやいや。美子になってたんだから―――」
違う。
芳原美子はそれなりに人気があっても、ヒトカタである花暖にはそれ自体のブランドが存在しない。レイナに言わせる所の『影』に優しくする相手が何処に居るだろう。自分を見せた所で誰がそれを認めるか。芳原美子というブランド以外、何もないのに。
しかし当時の俺は美子に疎まれていた。彼女が疎まぬ人間関係は芳原美子を演じなくてはいけないが、そうでないなら話は別だ。たとえそれが美子の厄介払いだとしても、俺との時間はまぎれもなく『花暖』の時間でもあった訳で。
今思い返せば無数にある心当たり。美子らしくない行動、美子とは思えぬ言動。恋愛的盲目に陥っていた俺でも分かりそうなくらい、美子と花暖は違っていた。実態は気付かなかっただけかもしれないが、美子らしくないから何だ。
デートが楽しかったのは、相手が美子だからではない。花暖が可愛かったからだ。一々新鮮で、心が安らいだからだ。
『花暖はずっと騙すのに罪悪感を抱いてた』
「……」
そして俺も。
『私も』
騙して勝ち取る日常にそれとない不安を感じていた。
「いつから知ってたんだ?」
『助けた時から』
「……早いな」
『嘘の癖を花暖がぼやいてたから』
俺の事を、本当に良く見ているようで。花暖には頭が上がらないと痛感する。
『私は誰にも気づかれてはいけない役目』
『自我なんて必要ないと思ってた』
『でも貴方が助けてくれた時から自分が認められた気がして』
『ついはしゃいじゃった』
『気付かれてはいけない役目なんてどうでも良くなるくらい楽しかった』
『目を見たり服を見たり胸を見たり髪を見たり』
『色んな角度から見てくれるから』
『ネイムの前にだけは居ていいと思い始めた』
『だから同じ理由なの』
『花暖も私も今は偽物かもしれないけど』
『貴方の前では一人の存在として居られるから』
アイリスが立ち上がる。圧倒されている内に、俺を拘束していた物は全て切り離されていた。
「ほんとうのなまえをしりたい」
「―――! アイリス、それは」
「わたしをみとめてくれるなら」
「わたしもほんとうのなまえでよびたい」
誰でもなかった時期の俺を認めてくれたアイリスの言葉が決め手となったのは否めない。俺は渋々承諾して、今は人を呼び出した所だ。
因みに蚊帳の外にあった『草延匠悟』はドッペル団によって解体され、アイリスが自分の姿と共に消してしまった。
ゲンガーが立ち会うのは面倒だと考えたのだろう。ズバリその予感は正しくて、ドッペル団の面々は呼び出した人が来るまで俺にアイリスの隠れ場所を聞き出さんとしてきた。知るか。
「えっと。こりゃどういう状況か説明してほしいかな〜。弟君?」
呼び出したのはお姉ちゃんこと心姫。携帯を返されて気が付いたが、今は夕方に差し掛かろうかという時間帯だ。そこで突然呼び出されればこんな反応もしたくなる。
「ゆめ まごうことなかれ そのなのよむは うたひめのつとめなり」
「んん?」
「マホさんが言ったんだ。なんのことか分からなかったけど。まんまだよね。詠姫お姉ちゃんの事言ってるんでしょ?」
お姉ちゃんの顔色が一気に暗くなった。その名前では呼んでほしくなかったと言わんばかりに。それから暫く全体を見渡して、気まずそうに後頭部を掻いた。
「……あ〜。うん。そうだね。そういう事でいいのかな、タク」
「俺の本当の名前を呼ぶのはお姉ちゃんの役目だから。今日は呼び出した。ごめんね。みんなが知りたいらしいから」
「……オーケー。事情は聞かないよ。けど確認させて。タク、昔を全て思い出してもいいんだね。実体験として本当の意味で戻していいんだね?」
「偽名ってだけで。大袈裟な気がします」
「ん。タクの友達でいいんだよね。私達にとって名前は大切なものなんだ。大袈裟なんて言われても返答に困る。私達が住んでた場所ではそういうものなんだから仕方ないんだよ」
「僕も疑問があります。記憶を思い出す程度で何故そこまで確認を?」
「タクの心が壊れるから」
お姉ちゃんは俺を一瞥してから、不埒にも名前を知りたがる二人に対して、敵意を含む視線で刺した。
「タクと友達なら、時々他人事って言ってどんな話も穏やかに受け止める癖も知ってるよね」
全員の首肯。最近は無意識ではないので回数も減ってきたが、確かにそれも癖だった。
「名前と記憶は表裏一体なんだよ。だから草延として体験した記憶はタクにとっては自分事でも他人の様に感じる。こっちに来てからの原因はそうだけど、それよりも前、タクは妹に突き落とされてから心を喪ったんだ。余所者にはわからない話が続くからやめるけどね」
「治す方法はないんですか?」
「あったら私がとっくにやってるよ! どうしようもないからこうするしかなかっただけ。本当は名前を呼びたくなんてないんだけど、マホが中途半端に緩めたならいっそ全部解放したほうがタクの為だ」
そう言ってお姉ちゃんはハンカチから顔布を作り、自らの顔を隠した。
それはあの日、初めて朱莉と出会いゲンガーの存在を知った日。俺が顔を隠す為に作った物と全く同じ構造だった。
「……彼岸の先に見届けたり。ヒトならざる神の落とし子よ。その名を以って再度の戴冠とす。名筵匠与よ」
終盤




