たった一人の味方
壁掛け時計の秒針を刻む音で目を覚ました。相変わらず夢は見ないらしい。だとするならやはりゲンガーは本物じゃない以外の違いが無いとでも言うのか……もし朱莉が協力的ならその辺りで鎌を掛けてくれたかもしれない。
まあ、もうどうでもいいのだが。
どうせ証明なんて出来っこない。そんな直ぐにでも証明出来るならオレはこんな自棄になってないし、深刻な問題にもなっていないのだ。そう言えば、あれから携帯の電源を切り忘れている。防水仕様なので壊れてはいないだろうが、その辺りの確認もしないまま眠ってしまった。本当に疲れていたのだろう。
『もう起きたの?』
「え?」
誰かに話しかけられた気が……というか話しかけられた。聞いた事がある声だが、オレの知る人物像と一致しない。胸の上で眠る少女―――アイリスを見ると、平常時の無表情に反して気持ちよさそうに眠っている。意識が無いのを良い事に頭を撫でてみるとサラサラだった。
『くすぐったいよ』
「え?」
眠っている…………眠っていない?
―――誰だ?
心で応答しても返事がない。ただのしかばねのようだ……って。そういう事ではなく。状況的に見てオレの頭がおかしくなった訳ではない。声に出せば恐らく反応してくれるので、今度はテレパシーではなく会話をするつもりで尋ねる。
「誰だ?」
『貴方の周りで話しかけられる人は一人しか居ないよ』
「……アイリス?」
『正解』
再度その寝顔を確認。本当に話しかけられているとしても信じ難いが、アイリスと呼んで反応してくれる人間は彼女しかいない。どうにかして理屈をつけるなら、このイヤホンを通して会話している……筈だ。今も薄いホワイトノイズが鼓膜を覆っているが、それを突き破って声が聞こえている。その証拠にイヤホンをしていない方の耳を塞いでも声は小さくならない。
『ネイムはどうして私を助けたの?』
「……死にそうだったからだけど。現に生きてるならいいじゃんかそれで」
『連絡が行き届いてないのか』
連絡……?
一晩落ち着いて、改めて花暖が遺した情報と照らし合わせてみる。ゲームから降りるという言葉と、連絡。そして何かを失敗して死にかけたアイリス。ドッペル団に居た頃は確信と呼ぶにも今となっては怪しいくらいだったが、直接確認出来たなら間違いない。ゲンガーにはやはり頭領がいる。それを聞いたら速攻で嘘がバレてしまうので尋ねたりはしない。仮に成功しても情報の提供先がないもので、胸の中で留めておくつもりだが。
『見破られたゲンガーに手を貸すのは駄目っていう連絡が七月くらいから入ったんだ』
「……聞いてないけど。仮にそれを聞いてても、オレは助けたよ。仲間だものな」
『…………それはありがとう』
ぷつんとノイズを断ち切ったような音が聞こえ、同時にアイリスが目を覚ます。寝ぼけ眼に鈍く光る紅い瞳がオレの視線を魅了した。どうして彼女の眼はこんなにも美しく、艶やかなのだろう。取ってつけられる手軽さは無いにしろ、猟奇的な欲望が否応なしにそそられる。
「おはよう」
「……今のどんな曲芸だよ」
「きにしないで」
オレの耳からイヤホンを取ると、がら空きの耳へ再挿入。今更だが他人にイヤホンを明け渡すという、中々どうして気の置けない仲でもないと行えない行動をしているし、受け入れてしまった。寝覚めは褒められたものではないオレでも、よくよく考えたら段々恥ずかしくなってきた気がする。部屋の奥に立てられた鏡を見ても自分の表情は分からないので、実際どういう気持ちなのかは判然としない。
二人仲良くベッドから起き上がると、アイリスのお腹が小さく鳴った。
無感情ながら、気まずい沈黙がたちこむ。
「おなかすいた」
「冷蔵庫を触っていいなら、オレが料理するけど」
こういう事態を想定して磨いたスキルではないが、アイリスに少しでも恩を返せるならこれ以上の機会はない。何処で役立つかなどと、千里眼の無い存在には大抵見通せぬものだ。得意気になって言ったつもりだったが、彼女は機械的に頭を振った。
「なにもない」
「マジか……じゃあやっぱり外食か?」
「ついてきて」
「切り替え早ッ! ちょ、ちょっと待てよ! 流石に着替えようぜ!」
そう言いだしたまでは良かったが、オレの着替えは雨でずぶ濡れになったあれくらいしかない。一晩も経てば流石に乾いたが、それでも何となく冷たい感覚は残っている。クールビズという事で納得しておこう。満更悪い気分でもない。
アイリスはゆったりとした迷彩柄のブラウスとジーパンに着替えた。付属機器はそのままだが問題はそこではない。ブラウスの下に着用したインナーがヘソだしの黒いインナーな所だ。ジムなんかで汗を流す女性が着用してるであろうタンクトップに近いか。正式名称はよく分からない。
「お、おまえ……っと。恥ずかしくないのか?」
「あついから」
「いや。それはそうなんだけど」
この家に唯一欠点があるとすればエアコンが存在しない事だ。昨日は極限状態からの脱出でそれどころではなく疲れていたが、改めて朝を迎えるととんでもない猛暑だ。雨が上がった後だからという理由ももしかしたらあるかもしれない。体感の話で根拠こそないが、雨の直後は全く風が流れない。今日もそんな日だ。
「でかけよう」
「あ、ちょっと待ってくれ。オレを襲った奴等……ほら、服が同じだろ。流石に顔を隠したい。顔隠しかなんか欲しいな」
もしも立場が逆だったのなら―――つまり『草延匠悟』の立場に居たのなら。ゲンガーの取り逃がしは凡ミスで済まされる話ではない。頭領が居る前提ならドッペル団の詳細が知れ渡ってまた利用される可能性もあるし、頭領こそ存在しないがある程度連携が出来るならやはりそこが新たな火種になり得る。
何が何でも見つけ出そうとするだろう。
特にオレは。絶対。
「ぼうし」
二階からアイリスが取って来たのは何処にでもある様な灰色の帽子だ。前方に唾があって、頭に何のこっちゃ意味の分からない文字が書かれている物。少し緩めれば頭のサイズにもぴったりだ。
「にあう」
「本音か?」
「うそはつかない」
罪悪感で、胸が痛む。
「はなれないで」
「―――で。どんな場所かと思えばこんな場所ですかアイリスさん?」
「まんぞくできる」
そこはかとなく危ない雰囲気を醸した二人組の行先は牛丼屋だった。お洒落というよりも正体を隠す目的で着替えたとはいえ、あんまりな目的地だと思うのは傲慢だろうか。外出間際にその瞳は目立つという進言でアイリスにはサングラスをしてもらった。
何故か輝きが貫通してしまうので、実際の効果は未知数である。
「いやまあ庶民的でいいけど……でもオレ、財布ないんだよな」
「ごちそうする」
「凄く、申し訳ない気分になるんだ」
「げんきになるならいいの」
命も助けてもらって、挙句ご飯までご馳走になるとは何処のヒモだ。便宜上朝食という事になるがそれならばこの選択肢は中々にヘビーだ。アイリスも多分、この町を詳しくは知らないのだろう。何となくだがオレを元気づけたくて、それならまずお腹一杯食事を摂ろうという安易な発想が窺える。
空腹がオレの考え方を悪化させたのは事実なので馬鹿にしようとは思わないし、せっかくの気遣いを無碍にする程のヒトでなしでもない。
「……じゃ。じゃあせっかくだから、大盛りでも頼んじゃおうかな」
「なら」
彼女はサングラスを外して、ゆらりとオレに視線を向けた。
「おなじのをちゅうもんする」
突然の庶民派。




