よくないの
ドッペル団の襲撃から辛くも逃げ出したオレ達が足を止めた時には、またあの家に戻ってきていた。どうやらここは彼女の家だったようだ。それがどうして庭で死にかけていたのかは気になったが、一先ず家の中に招き入れられて、バスタオルを手渡された。
「ふいて」
「……有難う」
少女もまたずぶ濡れのヘッドフォンとイヤホンを外し、目の前で平然と着替えをし始めた。迷彩柄のジャケットが脱げて内側の白いTシャツが見えた所で、無理やり脱衣所に押し込んで事なきを得る。それくらいの良識はまだあった。少しもったいない気もしたが。
―――何で助けてくれたんだ?
それがどうしても分からない。確かに命は助けたが、それだけで助ける理由になり得るかと言われたら違うだろう。あんなの気まぐれだ。人としての良心がたまたま働いて、その結果助けただけの話。果たしてそのお蔭でオレは自分を奪われ、今や何者でもなくなったのだが。
濡れたままの服を着続けると流石に風邪を引くので仕方なしに上着は脱いだ。下は倫理と羞恥心からあまり脱ぎたいと思わない。この家には十中八九男物の着替えなどないし、何よりどう高く見積もっても精々同年代の少女が傍に居る事を知りながら局部を出す度胸。これが無かったしこれからも培われる日は来ないと思う。
「きがえた?」
少女はオーバーサイズの黒いワイシャツと白っぽいショートパンツに着替えて脱衣所から出てきた。九死に一生を得た反動も落ち着いてオレは少しだけ冷静になっている。訳も分からないまま連れ去らわれた時は気付かなかったが、彼女の双眸はカラーコンタクトに彩られている訳ではない。光の反射と呼ぶにはあまりにも光沢が……というより光源だ。脱衣所を出る瞬間、瞳は間違いなくそれ自体が光っていた。
「――――――」
会話を切り出せないのはこの国の夏が湿っぽいからに違いない。少女はかなり遠くの方で扇風機を起動し、弱風をこちらに向けた。言葉こそ少ないが、かなりこちらを気遣っている。風邪を引くかどうかという時に扇風機は如何な物かとも思うが、ストーブなど用意されている道理はないし、乾かすという一点に絞ればそう間違った選択ではない。
身体も拭いてあるし、何となく涼しい程度では風邪も引くまいよ。
「どうして助けたんだ?」
「なかまだから」
「……え?」
「しっぱいしたわたしをたすけてくれた」
発音が拙い訳ではないが、どうして最小限の情報で会話を済ませようと思ったのか。それで相手に伝わっていると考えるなら大問題だ。コミュニケーション能力に深刻な問題がある。悲しいかな、オレには全て伝わってしまっているのだが。
「みじゅくなあなたをほうっておけない」
この子は、ゲンガーだ。
かつてオレは山本ゲンガーを未熟と蔑んだ。見放されたというのはよく分からないが、理由に対して『仲間』を持ち出す理由はそれくらいしか考えられない。オレ達の最新の接点は言うまでもなくほんの一日前なのだから。
少女が濡れたアルバムを指さした。
「かのんはともだちだった」
「……! じゃあもしかしてオレの事も元々知ってたのか?」
「しらない」
倒置染みた説明にややこしくなるが、花暖のアルバムを持って死に際に彼女の名前を呼んだオレを仲間だと確信。ゲンガーである自分を助けてくれたという事は同じゲンガーに違いないとも考えたかもしれない。助けてくれた恩も残っていて助けない理由が無かったから助けたと。
一言で纏めるなら助けた理由とその根拠が別のものだった。たまたま『花暖の友達』だった彼女が『見ず知らず』のオレを助けたと言えば状況は分かりやすいか。
―――ゲンガーは殺す。
それがドッペル団の鉄則だ。助けられた恩があったとしてもそう判明した以上は殺さないといけない。ゲンガーを殺すという使命だけを持った存在がオレだと自分で言ったのだから、一貫性は持たせなければ。
「…………」
自分の表情は分からないが、少女は至って無感情だ。絵に描いたような真顔とも言う。己自身がどういう存在かを決めるのは自分だが、それは比率としてあまり多い割合ではない。多くを占めるのは他人から見た自分であり、そこに沿うならオレは間違いなくゲンガーだ。もう誰もオレという存在を『本物の人間』とは認めてくれない。
「もういっかいいくならてつだう」
「…………えっと。その前に名前を教えてくれないか。本当の名前の方」
「アイリス」
「絶対俗称だ。ちゃんと教えてくれ」
無表情には違いないのだが、オレの目には何故か苦々しい表情を浮かべているように見える。完全に気のせいと言いたいところだが、ボールペンを持つ手が止まっているのでそうとも言い切れない。何度か催促すると彼女はゆっくり赫倉愛莉栖とフルネームを書いてくれた。
アイリスはありすの読み方を変えていたのか。まるっきりデタラメでもなかった。
「あなたのなまえ」
「あ。ああ。オレは……」
その名前は、使えない。
「―――名前は、無いんだ。記憶がないんだよ。勿論、なり替わり先としての名前ならあるけど失敗しただろ。だから名無之名無って事で。ネイム。そう呼んでくれ、アイリス」
これはゲンガーを騙っているのか、それとも本当にゲンガーになってしまったのか。そんなの誰にも分からない。確かなのは、ゲンガーについて何も知らない事。それだけは本当だ。記憶がないと言っても語弊こそあれ間違いではないくらい。
だから、知りたい。
オレを助けてくれた心優しい少女から、ゲンガーの一面を垣間見たい。
「ネイム」
「ん?」
「もういっかいいくなら―――」
「行かない」
オレは花暖の事を何も知らないまま、別れてしまった。二度も三度も同じ過ちを繰り返すのはごめんだ。アイリスを通してゲンガーを知る事が出来たら何か変わるかもしれない。何も変わらないかもしれない。
でも、アイを失った男に選択権はない。アイを知らない男に選択肢はない。
「―――暫く。普通に過ごしたいんだ。もう…………疲れたんだよ」
卑怯なゲンガーだ。オレは。
でもきっと、嬉しかったのかもしれない。死ぬ事ばかり考えていたオレに、生きる意味を見出せなくなったオレに、それでも『しんじゃだめ』と手を差し伸べてくれたアイリスの存在が。だから年甲斐もなく甘えるような言い方をしてしまった。
だから彼女も、それに応えてしまった。
順番にお風呂を済ませた後、二階のダブルベッドを使う流れになった。一宿一飯どころではなくここには何日でも居て構わないと言う。かつてオレが止血した腹部は山本ゲンガーよろしくすっかり治っており、いよいよ万に一つの勘違いも潰され彼女がゲンガーである事が確定する。
「つけて」
「え?」
就寝間際、アイリスはイヤホンの片方をオレに渡してきた。彼女がお風呂に入っていた際にたまたま見えたのだが、このイヤホンが繋がっている先が壊れた携帯電話だ。これを付けて、一体何が聞こえるのだろう。
左耳につけると、ホワイノトイズが聞こえてきた。
「……四六時中聞いてるのか?」
「…………」
無視された。
アイリスは一旦馬乗りになると、そのまま上体を倒してオレに覆いかぶさった。イヤホンが短いので仕方ない……事もない。流石に隣くらいまでは届く。ゲンガーは本物と見分けがつかない事で有名だが、彼女の体重は人間と呼ぶには不自然なくらい軽かった。
その割には発育が恐ろしい。
―――服が大きいから分からなかったな。
朱莉より少し高い程度の身長で山羊さんに匹敵する大きさとは思わなかった。オーバーサイズの服がかなり体型を隠していたようだ。
「おやすみ」
「おう」
互いの眼が触れ合いそうな至近距離でアイコンタクトを交わし目を閉じる。ホワイノトイズのさざ波が緩やかに睡魔を導いて、二人の意識を無垢なる底へ。
現我編




