偽物に生きる価値は無い
「自分の姿が分からなくなった?」
シャワーから上がって、真っ先にそれを尋ねてみた。これがもしゲンガーの仕業でないとするなら、突然何らかの病気に罹患した可能性があるからだ。そこに医者が居るなら診てもらうだろう。専門外らしいが、それでも先生は診察してくれた。曰く『これが闇医者の特権』との事。
「自分が分からない事に気付いたのは今?」
「そうですね。何か丁度いい病気ありますか」
先生は近くの机に頬杖を突くと、気怠そうに明後日の方向を見つめた。
「丁度いいかはさておき、幾らか候補があるよ。ただ、気になるのは自分の顔どころか全身が認識出来ないという点だ。影みたいに見えてるんだって?」
「はい」
「……顔だけならね。相貌失認の線が一番濃くて、次点で統合とか解離とかそういう方向かなと思ったが、相貌失認は歩いていたら急に発生するものでもない。先天性でないなら君は頭部に深刻な怪我を負ったとかの方向で考えないといけないが、そういう訳でもないのだろう? 専門の人に聞けばまた違う答えが得られるかもしれないが、精神疾患の一つとして括られるのがオチか……? 全身が認識出来ない……いや、影としては認識出来るなんて僕は聞いた事もないな。しかも自分だけ唐突に。もしかしたら最先端医療で治療出来るものかもしれないが、そんな設備は少なくともウチにはない。諦めてくれ」
「やっぱ……そうですか」
まあ、ゲンガーだろう。ここで希少すぎる新たな病気にかかったという可能性よりはそちらの方が高い。ならば治療法は明確で、合意を覆せばいい。分かりやすく具体的に実現出来そうな手段を添えるなら、今すぐ青義先生に脳みそを弄ってもらってゲンガー関連の記憶を消去する。そうすれば認識の合意は破棄され、俺は無事に自分の顔を見る事が出来るだろう。
しかしゲンガーが居なくなる訳ではないので、その行いには何の意味もない。自分の顔が認識出来なくても特に不自由は無いだろうからこのままでも良い。それよりもゲンガーだ。何とかしなければ。
「ゲンガーの細胞って、なんか凄いんですよね」
「うん。本人が肉片になってても機能するくらいだから、それを細胞と呼ぶのはどうなのかという気持ちもあるけれどそうだね」
「じゃあDNA検査みたいな感じでそういうサンプルみたいなのを取れば、俺が本物だって証明出来ませんか?」
「やる価値はあるかもしれないが、もしそれで証明出来なければその時偽物と思われている方が殺される事は承知してる?」
「…………」
どうしようもなくなったら、取るべきか。一時の安全が約束された状況では最悪手になり得ると。しかしそれ以外に証明方法が思いつかない。ゲンガーについての情報がずっと前から圧倒的に不足しているのだからこればかりは個人の知恵でどうこうなる問題じゃない。
俺がゲンガーに取って代わられたとてアクア君が調査をやめる事はないだろうから、いっそ彼を信じて待ってみるというのも手だ。本物でも偽物でも同じ『匠悟』である事に変わりはない訳で、そこは中立で居てくれると信じたい。
「ゲンガーとやらの手で殺されたくないと思ったら僕を頼りなさい。楽に殺してあげるから」
「あ、はい。それは全然…………多分、お願いしに来ると思います」
青義先生は想定していなかったとばかりに頬杖を解いて姿勢を正す。痛いのも死ぬのも嫌だが、痛みを感じないまま死ねるなら選択肢の一つだ。いつかの話なら断る理由がない。
「―――久しぶりに好反応を得られたよ。素直に驚いてしまった。いやはや、そう言ってくれるなら大歓迎、料金なんて取らないしアフターケアもある程度は引き受けようとも―――それとも君のそういう態度に敬意を表して、一つアドバイスをしよう。友人としてだけど」
「アドバイス?」
何の情報もないのに出来るアドバイスとは気になるではないか。前傾姿勢になって発言を促すと、彼は俺の輪郭を指でゆっくりとなぞり始めた。
「その認識障害は治した方がいいよ」
「え? でも日常生活にそこまで支障は……ああいや、歯磨きとかは困りますけど、ゲンガーに関しては全然関係ないし」
「関係ない。本当にそうかな。君は自分を本物と言っているが他人にそれは現段階で証明出来ない。一方で君自身には自分が本物だと証明出来る。他ならぬ自己認識だ、これよりも確固たる証明も中々ないよ。だが自分の全身が認識出来なくなれば、やがて君は自分を本物だと言えなくなるだろうね。口では言えても現実味がない。中身が伴わない。自己認識が本物を否定するようになる。自分すら敵に回った状態では最早問題解決など不可能だから論ずるに値しない。ネガティブな人間がその性根を改善する為にはまず自分を受け入れる所から始めなければいけないが、認識出来ないままでは受け入れる以前の問題だ。自分を完全に理解出来るのは自分だけで、自分を完全に支えられるのも自分だけだ。他人に完全に支えられている人間も全くいないとは言わないが……それでも、支えられる上では自分と向き合うプロセスは必要になってくる」
早口でまくし立てる彼の振る舞いには得体のしれぬ凄味が感じられた。圧倒されていて、割り込もうという気も起きない。
「だのに、自分の全身が分からないでは受け入れようもない。だからその障害は最優先で解決するべきだ」
「医者としてじゃないのに、随分教えてくれるんですね」
「僕は闇医者だが、それなりに医者としての矜持はあるつもりだ。可能性の話や経験則をするなんてらしくないだろう。友人として無責任な方が話せる事もあるんだよ」
確かに無責任だ。確証なんて用意出来ない癖に方向性の舵を取ろうとする。普段なら半信半疑と言いたい所だが、一斉に頼れる人間を失った現状、彼の言葉を信じてみるより他は無い。
―――どうせ誰も味方はいないんだ。
何で俺は人助けをしてしまったのだろう。お釈迦様が天から覗いているでも無し、蜘蛛の糸が垂れてきて救われるチャンスを得る事もない。損ばかりで、不運ばかりで、
俺は。
最優先事項は存在の奪還。青義先生は情報こそくれるが表立って協力はしてくれない。しかしそれが最大限の譲歩というか、情けというか。これ以上を求めるのは傲慢というものであり、ここを凌げても何処かで足を掬われる未来を予感させてしまう。これで十分だ。
それに、取り返す手段がない訳ではない。俺が孤立した瞬間を狙ってゲンガーが割り込んできたなら、暫定ゲンガーとして同じ方法でやり返せば良い。朱莉もレイナもあちら側についたのは俺の言い分に不備がありすぎるからだ。
まず突然人助けをしようと思った理由が分からないし、ほぼ死んでいると判定した癖に様子を見るのも謎。雨になったら家に帰らず付きっ切りなのも謎。ドッペル団におよそ相応しくない行動の数々は怪しまれたり不信感を抱かれても不思議はない。
それに、勘違いでないなら……肉体関係を持った人間を真っ先に疑うのは筋が通らない。俺の偽物は何という真似をしてくれたのか色々と暴力で以て質問したい所だが―――悪いのは俺だ。変な親切心など出さなければよかった。
今思いついた理由だが、ヒトカタについての情報を暴露すれば良かったのではないか。『ゲンガーの前段階がゲンガーになる瞬間を捉えたくて死にかけの人間の様子を見ていたら』やらかした。こういう方向性なら無理に嘘を吐く事も無かったし、朱莉も―――最低でもレイナは信じてくれたかもしれない。
全て手遅れになってから最適解が思いつくとは皮肉な話だ。冷静なつもりだったがそれは気のせいで、実際は至極単純に狼狽えていた。笑い話にもなりはしない。
青義先生の医院を離れてから、行く当てもなく俺は公園へ流れ着いた。
携帯は何処かでまた逆手に取られそうなので電源を切っている。今は誰も頼れないし頼るだけ俺が損をする。
家にも帰れない。姉貴なら或いは話くらいは聞いてくれるかもしれないが三人の拠点でもある場所に帰れば今度こそ追い詰められるだろう。
「……はあ」
今はまだ大丈夫だが空腹をどうするかという問題もある。こういう時に財布を持ち歩かないとは愚かな男だ。家にこっそり帰ろうとしてもまず気付かれるだろうから、早く本物としての証明をしないと餓死一直線だ。
やむを得ない事情という事で何処かの店で万引きしたとして、一体誰がそれをやむを得ないと思うのか。死なんて嘘なのに。
警察に捕まってなんやかんやあって刑務所入りでもすれば空腹は凌げるが今後一切の身動きが取れなくなる。
どうしよう。
うな垂れて、延々々々々々々々々々々堂々巡り。




