古代書
二階には部屋が三つある。
そのうちのひとつは共同の寝室に。
もう一つの部屋にはカッサンドラさんが上がり込み、今は自分の根城にしていた。
こんこん、とカッサンドラさんが根城にしている部屋の扉をノックする。
「はい。どなたかしら?」
「俺ですけど」
「どうぞ」
その言葉を受け扉を開く――が。
内開きの扉は、途中で何かにつっかえてしまう。
「……ん? なにかあるのか?」
わずかに開いた隙間からどうにか室内へと足を踏み入れると……先日まで空っぽだった部屋の中は様変わりしていた。
床は、俺の背丈の半ばほどまで積み上がった本でほとんど埋め尽くされている。
壁には棚が天井まで据え付けられ、そこにも分厚い本や紙の束がぎっしり押し込まれていた。
さらに部屋の奥には机がいつの間にか置かれていたが、これがまた笑えるほどでかい。表面積はベッド一台とほぼ同じぐらいありそうだ。
当然のごとく、机の上は本がこれでもかとばかりに積み上げられていた。
本も、紙束も、ざっと見た限りではほとんどすべてが魔導関連のもののようであった。表紙や背表紙には魔法言語が綴られているものも多かった。
「…………」
思わず絶句してしまう。
それほどまでに、室内の有り様は変わっていた。
「ごきげんよう、ジェラルドさん」
本だらけのこの空間の中、カッサンドラさんは机に向かって分厚い書物を開いていた。
その佇まいの美しさに俺はつい目を奪われた。
装いは、ベビードールとでも言うのだろうか。
腰元ではらりと広がる、絹でできた琥珀色の夜着だった。
紫がかったブロンドに、その夜着はよく映えている。
ところどころに、大胆にして妖艶な意匠が施されていた。
入口からカッサンドラさんまで少し距離があるにも関わらず、その服は向こうの肌が透けて見えるほど薄い造りであった。
机に向かっていたカッサンドラさんが、こちらに振り向き椅子に座ったまま会釈してくる。
「どうぞ、遠慮なくお入りになって?」
「……ええ、失礼しまう。というか、一体いつこれだけの本を運び込んだんですか」
問いの言葉を投げかけると、彼女は少し大きめの鞄を手に取って軽く揺らしてみせる。
「研究用の魔導書はすべてここにしまっておく癖がついてしまっているのよね」
「まさか……それは魔導具ですか?」
「ええ。これひとつで……この屋敷の倍ほどの容量があるかしら?」
魔導具とは、特殊な素材に魔法言語を刻んだ道具のことである。
通常の道具よりもはるかに利便性に優れるが、高度な魔法言語の知識が必要であるのもまた事実。
さらに手掛けることのできる職人が数少ない。
彼女の鞄の他には、ガントの大盾なども、魔導具のひとつであると言えた。
「この部屋にある本も私の研究資料の一部でしかないわね。本当は全部出したかったのだけど……さすがにそれをやったら屋敷どころか道場のほうまで本に埋もれてしまうからできなかったわ」
「そうでしょうね」
ただでさえメイファンの家は普通の家と比べてもでかい。それだけ、シャオランさんが冒険者としての稼ぎを上げていた証拠でもあろう。
その二倍の容量ほどもある、鞄の魔導具
中身を全部出した場合、この敷地がすべて本で埋まってしまうことは想像に難くなかった。
それにしても……艶美な装いのカッサンドラさんと言葉を交わしていると、どぎまぎしてしまって仕方がない。
先ほどからチラチラと見える肌色が、どうにも心臓に悪かった。
「か、カッサンドラさん」
「何かしら?」
「しょ、処女にしては、無駄に色っぽい部屋着を身に着けられるんですねっ」
勝手にどぎまぎして、緊張して、それを解きほぐそうとした結果……とんでもないことを口走ってしまった。
「無駄肉とはなによ無駄肉とは」
……やっぱりお怒りになっている?
俺の言葉に、カッサンドラさんが腰に手を当て頬を剥れさせる。
その動きに従うようにして、たわわに実った乳房がベビードールの下で揺れた。
思わず俺の目が惹きつけられる。
……見事だ。
肉感的に揺れる乳房から、俺は無理やり視線を逸らす。
相手は公爵家令嬢にして宮廷筆頭魔導師だ。
あまり機嫌を損ねれば、俺の存在を社会的にも物理的にも殺せるぐらいの権力はあるだろう。
弁解しようと口を開く。
「い、いや別に乳の話は誰もしていませんから」
「私も胸のこととは一言も口にしていないけれど、ジェラルドさん?」
「あ、そ、そうですね……」
「それにその処女の無駄肉でいつもデレっとした顔をしているのは誰かしら。ジェラルドさんにお心当たりございませんこと?」
「あぐっ、そ、それは、その……」
ダメだ追い詰められている!?
カッサンドラさんの表情が嗜虐の色に染まる。
「あら? ジェラルドさんは私のこのお肉でいつもデレっとした顔をしてらっしゃるのかしら? やらしい人だこと」
「ち、ちがっ……」
否定しようとするが言葉が出てこない。
カッサンドラさんの舌先で、完全にもてあそばれている!?
いまやカッサンドラさんは、二の腕で胸を(おそらく意図的に)挟んでいた。
むにゅん、と胸の潰れる様子が、ベビードールを透かして見える。
さらにその状態のまま、足を組んでさえみせた。
すると……見えた。
ベビードールの、さらに向こう。
肉感的に白く浮かび上がる太ももの付け根、女性のもっとも大事な部分を護る最終防壁。
淡い桃色をした女性用下着が!
だがそれも一瞬のこと。
足を組み終えると、ふわりと舞い上がったベビードールが、再びその下着を覆い隠す。
「もっと真面目な人だと思っていたのに」
また、組みかえる。
チラチラ。チラチラ。
「うっ」
「そんな欲情した目を私に向けていたなんて」
淡い、桃色の布地が……。
カッサンドラさんが足を組みかえるたび、俺の目に映る。
視線を、逸らすことができない。
「ほら、今もそんなにやらしい目をしてる……」
「あ、こ、これは……」
顔が熱くなってくる。
からかうようなカッサンドラさんの視線に、心拍数が跳ね上がる。
「ここまでやらしい人だったなんて、ジェラルドさんには幻滅しちゃうわ」
「そ、そそそそれよりもお!」
ドキドキという音を打ち鳴らす心臓を、俺は声を張り上げることで無理やり抑えつけた。
……本当に、この人は心臓に悪い。
「……夕食になるから降りてこいってシエラが言ってましたよ」
「あら、そう」
話題を強引に変えると、カッサンドラさんはつまらなそうに机に向き直った。
開いたままだった本のページへと目を落とす。
「悪いけれど、今は少し行けないと伝えておいてもらえるかしら?」
興味なさげな声でそう告げる。
「え? でも、遅くなるとご飯も冷めちゃうと思うんですけど……」
「自分で温め直すぐらいはできるもの。それよりも、今はこれの解読を進めたいわ」
「……解読を進めたがっている割には、さっきまで俺のことをからかうのに熱心だったようですけどね」
「研究の成果をあげるには適度な息抜きも重要だもの」
「……別の息抜きの仕方を考えるべきだと思いますけどね」
息抜きのたびにからかわれていては、そのうち俺の心臓が爆発してしまいそうだ。
それにしても……。
「解読ですか?」
解読、という言葉に俺は興味を覚える。
魔導書には二種類ある、という話を父さんから聞いたことがある。
ひとつは、一流と呼ばれる魔導師が、自分の技術体系を後世に伝承するために記した魔導書。
もうひとつは、時折発掘されることのある古代の魔導書――古代書だ。
古代書は魔導の発達や起源解明の研究をする上で重要視されているものの、解読には時間と労力がかかるらしい。
なんせ一冊の古代書を解読するのに、一流の魔導師が十人から必要なのだ。
おまけのその十人をもってしても、解読に百年以上かかることすらざらにあるらしい。
……まあ、英語に置き換えてみれば分かりやすいな。日本人が、日本人だけの力で英語を解読しようとしたら、途方もない時間がかかるに違いない。
こっちの世界には辞書もなければ日本人もいない。時間がかかるのも無理はないわけである。
解読、という言葉を用いた以上、カッサンドラさんが今読んでいるのが古代書のほうであることは想像に難くなかった。
「あら? ジェラルドさんは古代書に興味が?」
「ええ……少し」
「なら、どうぞこちらにいらっしゃって」
「いいんですか?」
古代書が貴重なものだということぐらいは俺も知っている。
おいそれと人に見せることができるようなものではないはずだ。
「構わないわ。『通りすがりの凄腕魔導師』さんのお弟子さんなら、面白い助言を聞かせてくれるかもしれないもの」
「なら……」
本の塔を崩さないよう注意しつつ、カッサンドラさんのところへ向かう。
近づくと、彼女は俺が見やすいように古代書とノートの位置をずらしてくれた。
「今解読しようとしているのはこの辺りね」
ページに綴られているのは……思った通り、魔法言語である。
ところどころ掠れて読めなくなっているが、カッサンドラさんが指で示しているところだけは辛うじて文字が残っていた。
当然のことながら、日本人だった前世の記憶がある俺にはその内容を読み取ることが可能である。
そこに綴られていた内容とは……。
『幽世より稀人来たり、言霊の理をもって魔の輩を討ち払い現世に安寧の時を招かん』
こっちの言葉に直訳すると、『あの世から不思議な人がやってきて、魔法言語で魔族を打ち破り平和な時代をもたらす』といったところだろうか。ある程度は意訳になるけどな。
とはいえ、読めたからといってもこれだけでは正直意味が分からない。
前後の文章が消えてしまっているのが悔やまれた。
首を傾げる俺に、カッサンドラさんが問いかけてきた。
「ジェラルドさん。なにか意味を読み取れるものはあったかしら?」
「いえ……残念ですけど、まったく」
「そう……本当に残念ね。あなたなら何か新しい発見をしてくれるかもしれないと思っていたけれど」
残念そうにカッサンドラさんがため息をつく。
少しだけ、罪悪感が刺激された。
俺には意味を読み取ることができる。なんて書いてあるのか、こちらの世界で説明することもできる。
だが、古代書は本来十人以上もの一流魔導師を集めて解読するようなもの。
あっさりと俺が読み解くことができてしまえば、不自然以外の何物でもなかった。
「俺じゃなくても、研究に協力してくれる魔導師はいるんじゃないですか?」
「知識量だけが自慢の中央にいる魔導師もどきな老いぼれなんて役に立たないわ。それよりも、フィールドワークやあなたのように若い才能と話したほうがよほど研究の成果も上がるというものよ」
「そういうものですか」
「ええ。本音を言えば、一番話してみたいのは『通りすがりの凄腕魔導師』さんね。魔族をも退ける魔導師としての実力……とても興味深いものがあるわ」
そう語るカッサンドラさんの言葉にはどこか熱が込められていた。
よほど、魔導が好きなのだろう。
俺のことをからかう時以上に、彼女の声は弾んでいた。
「この古代書は私の見たところでは魔導の起源について言及されているのではないかと思っているの。魔法言語がいつどこで人間にもたらされたのか今のところ判明していないのだけれど、それについての記述がここにはありそうな気がしているわ。私の知る限りでは古代と近代との間には記録の断絶があるのだけれど、古代書が存在する以上古代にも魔導や魔法言語の存在があったはず。なのに記録上で魔導が認知されるようになったのは、あろうことか近代に入ってからなのよね」
カッサンドラさんが流れるような言葉で解説を始める。
どうして、こう、研究肌の人間って説明するの大好きなのかなあ……。
こういうのはほんと、一種のオタク気質だと思う。
絶世の美女でも、確かにこれでは男のほうが逃げ出しそうだった。
それにしても。
「なるほど、だから……」
魔導の起源について、言及ね。
それなら、先ほどの記述、『幽世より稀人来たり、言霊の理をもって魔の輩を討ち払い現世に安寧の時を招かん』というのにも合点が行く。
この一文にはきっと、カッサンドラさんの求める情報が含まれているはずだろう。
「っ! ジェラルドさん、何か閃きが!?」
つい漏らした俺の言葉にもカッサンドラさんが敏感に反応する。
瞳はきらきらと輝いていて……その上体まで寄せてきた。
ふわりと、大人の色香が鼻先をくすぐっていくが、そのことにも無頓着といった様子である。
「いえ、そういうわけじゃないですよ。なるほど、魔導が大好きだからカッサンドラさんは大量の本を持ち歩いているんだなあと、納得しただけのことです」
「そう……私としたことが、早合点してしまったわね」
俺の言葉に、カッサンドラさんの表情は一転して冷めたものになる。
「それよりも、ほんとに早く階下に来てくださいよ? あれでいて、シエラが機嫌を損ねたらすごい面倒なんですから」
「……そうね。息抜きがてら、食事するのもいいかもしれないわね」
「そうですよ。ほら、行きましょう。あ、服はちゃんとしたのに着替えてきてくださいよ?」
そう告げると、俺はそそくさを部屋を後にする。
着替えを手伝えなんて言われたら、それこそ心臓がびっくりしすぎて悲惨なことになりかねないからね。
――
カッサンドラは、部屋をあとにしたジェラルドを見送ると、おもむろに開いていた古代書を閉じた。
分厚いそれは、閉じるときにむしろどすん、と重い音を立てる。
かびと埃のにおいが混じった、古書特有のかおりが鼻先をくすぐった。
それを満足げな様子でカッサンドラは吸い込む。研究肌の彼女にとって、このかおりは親しみの持てるものであった。
「あなたはなにを読み取ったのでしょうね?」
他に誰もいない部屋で、ぽつり、彼女はつぶやく。
なるほど、だから……と言葉を漏らした時の、ジェラルドの表情。
あの表情は、知っている。鏡で見たことこそないが、カッサンドラ自信がなにか特別な閃きを得た時にも似たような表情をしているはずだ。
おそらく彼は、あの古代書を見てなにかの発見をしたのだろう。
それはカッサンドラにとって非常に興味深いものに違いない。
魔導師として積み上げてきた洞察力が、この興味を確信へと変えていた。
「ふふ……ほんと、久しぶりに面白い逸材に出会えたわね。彼の魔導師としての力量……是非とも測りたいところだわ」




