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第三十六話 ~記憶の旅編 5~

帝釈天の不義を阿修羅が知るところとなった翌日、彼女のもとにやってきたのは。

 善見城で勝利の祝宴が催された翌日、工匠のトバシュがやってきた。サティアが阿修羅の命により呼びつけたのである。


「あの、阿修羅様、トバシュでございます。ご無沙汰しております」


 寝起きのような髪型で、人懐こい緑の瞳をおずおずと向けてから頭を下げた。阿修羅は広間の大きなソファに身を投げるように座ると、阿修羅琴を無造作に置いた。


「先日久方ぶりに弾いたのだが、持ち手が緩んでいたように思う。見てくれないか」

「はい。お安い御用で」


 トバシュは(うやうや)しく阿修羅琴を手にした。元々この竪琴は、阿修羅の一族に伝わる家宝だ。阿修羅の一族は、いつのころから天界に存在したのかはわからないほど古くから存在していた。その一族の中で、阿修羅は最も若い。阿修羅以外は天界の下部に住んでいるという。阿修羅が竪琴を一族の長から授かったとき、弦が切れかけていた。それを工匠として名高いトバシュに預けたところ、何の変哲もなかった竪琴は見違えるような美しい物になっていた。


『この竪琴には不思議な力がありますが、ご存じですか?』

『さすがだな、気が付いたか。だが、他言は無用だ。おまえの命に関わるぞ』


 トバシュは阿修羅の言葉に震えあがった。琴の不思議な力については、正確にわかったわけではなかったが、トバシュが弦をいくら弾いても琴は音をなさなかった。恐らく弾き手を選ぶのであろう。阿修羅はトバシュの腕を見込んで、自らの剣も打たせていた。 


 今、阿修羅から竪琴を受け取ったトバシュは手早く緩みを直している。阿修羅はその手際の良さを見ながら、昨日の帝釈天のことを思い出した。


「あの男。やはり信じるに足らぬか。このまま婚約など、出来るものか……」


 トバシュの前で、声に出して愚痴る。目の前にいる工匠は自分に話しかけているのかと勘違いし、なんとか返答をしようとした。


「あの……。帝釈天様なら、わざわざ拙宅に来られました」

「なんだと?! どういうことだ!」


 思いもよらないトバシュの言葉に阿修羅はつい大声を出した。その勢いに当のトバシュがたじろぎ、作業の手を止めた。


「あの男は何をしに来たのだ! 隠さずに申せ」

「え、ええと。この竪琴について色々聞かれましたで。い、いえ、ワシは何もお伝えしておらんです。滅多なことは、お客様の大事な道具じゃから……」


 今にも胸倉を掴みそうな阿修羅の様子に、後ずさりしながらトバシュは答えた。小柄な工匠はより一層身を縮ませている。


「何かを掴んだのか? 元々阿修羅琴を婚約式で披露しようと言ったのもあいつだ。私はこの琴をあまり公の場に出したくなかったのに……」


 二人の婚約の祭祀が行われるのは三日後だ。初日は前夜祭が執り行われ、須弥山の頂上で行われる太陽神への誓いは二日目の早朝となっていた。その後は天界中でお祭り騒ぎ、天界六天を天馬の牽く馬車によるパレードも行われる運びとなっていた。


 阿修羅琴は二日目の太陽神への誓いの際、阿修羅が奉納する予定になっている。


「阿修羅様、どうなさるおつもりですか?」


 トバシュが阿修羅琴の調整を終え、館を後にしてからも阿修羅はずっと考えていた。そこにサティアが現れ、彼女に問いかける。


 淡い恋心は一転し、今や疑惑しかない。いや、愛していたからこそ裏切られた気持ちが強いのかもしれない。もしや最初からそのつもりで? 一体いつこの琴の秘密を知ったのだ? それとも私があいつに見せたのが間違いだったのか?

 阿修羅は自問自答するが、答えは出ない。もう半時もすれば、昨日言っていた通り、あいつはこの屋敷にくるだろう。


 この琴を奏でることができるのは、一族の後継者のみ。今の奏者は阿修羅だけだ。帝釈天はそれを知っているのか? 


 ――――いくら貴様の頼みでも、私はこの琴をおまえのためには奏でることなどない。


 ここで言う、『奏でる』とは、普通に演奏することではない。阿修羅琴の力を発するために奏でるということだ。それはどんなことを意味するのか。帝釈天はそれを正しく理解しているだろうか。


「とにかく、もう痴話喧嘩の段階ではなくなったようだ。あの男の出方を見てみよう。場合によっては、婚約式の場は文字通り前代未聞の修羅場になる」


「それでよろしいのですか?」


 サティアが重ねて尋ねる。


「ふふ。甘い夢だったな。もうすっかり覚めたわ。一族の宝を狙うヤツなど許すはずはない。それが目的であったのならば、私の誇りも傷つけられたことになる。これは……、ただでは済ませまい」


 阿修羅の鮮血の朱色、双眸がきらりと光る。サティアの顔も暗い面持ちから雲が晴れた空のように明るくなった。だが、サティアはそのほころんだ顔を再び引き締める。唇を噛み俯く阿修羅が心なしか寂しそうに見えたからだ。





 その後訪れた帝釈天に、阿修羅はいつもと変わらぬ様子を見せ、彼を安心させた。ただ、体に触れさせることは避けた。婚約式の前まではお楽しみにしておこうと意味深な笑みを添え、帝釈天を有頂天にした。


 天界人における恋愛は肉体を伴わないこともある。天界人としての位が高いほど、ただ見つめ合うだけで快感を得ることもできる。だが、どこの世界にも色欲の深いものはいる。帝釈天はもちろん後者だ。十三年の禁欲の後、阿修羅が求愛を受けた時はすぐにも押し倒す気満々だった。だが、阿修羅はそれを拒絶。ここで焦ることもないと我慢した。ようやく口づけだけは許してもらえるようになった帝釈天にとって、今回の『お楽しみ』は、念願叶う時がきたと妄想させたのも無理はない。



 そして迎えた婚約式前夜祭。阿修羅は黄金のドレスを纏い、帝釈天の待つ、『善見城』へ向かった。






つづく


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