第二十九話 絶体絶命
帝釈天襲来!
阿修羅は痺れる指先を動かそうとする。だが、まだ自分の自由にはならなかった。悔しさに唇を噛みしめ、すぐ目の前にいる帝釈天を睨む。いつの間にか帝釈天は馬上から降り、阿修羅の足元にどっしりと構えていた。
「たとえおまえが不死身であっても、この金剛杵の直撃を受けたのだ。すぐには動けまい」
実際、阿修羅は被弾の瞬間、防御を張った。白龍をも包むように張ったシールドがもしなかったら、体の自由どころか、意識も飛んでいたことだろう。五体もどこかが吹き飛んでいたかもしれない。
「ところで、『阿修羅琴』のことは思い出したか? いや、琴だけでなく、おまえ自身のことを」
「な……な、に……」
噛みしめた唇をわずかに開ける。とたんに血の味が舌に染み込む。その不快さを頭の隅に追いやって声を絞り出した。
「思い出せないなら、ここらにいるお前の部下達にもこの雷撃をお見舞いしてやろうか」
笑みまで浮かべる帝釈天は、あくまでも余裕だ。見ると彼の背後、上空は帝釈天の軍が埋め尽くしている。ざっと見ても千騎は越えるだろう。
「や……やめ……」
阿修羅がそう言いかけた時、帝釈天の顔に青いものがへばりついたのが見えた。
「わ! なんだ、こいつは! やめんかあ!」
クルルが帝釈天の顔を突きまわっていた。特に目を狙って鋭いくちばしを素早く突いている。だが、そんな攻撃は続かない。あえなく帝釈天につかまれる。
「この、鳥ふぜいが!」
右腕を振りかぶって、投げ捨てようとした。その時、大きな手が黄金の腕輪をした帝釈天の腕を掴んで制した。
「何者!?」
「帝釈天殿、命あるものを無下にするのは神としてあるまじきことでしょう」
「シ……ダールタ……」
そこに現れたのは仏陀だった。カルマンに気絶させられた仏陀だったが、金剛杵の攻撃を受けた阿修羅の衝撃が目を覚めさせた。そして、戻って来たトバシュと入れ替わりに最上階へと向かった。意識ではなく、本体で来たのは仏陀にとってもここが正念場であることを感じていたからだろう。
「これは……。仏陀殿。先だってはクベーラが失礼しました」
帝釈天はそう言うと、クルルを掴んだ右手を開く。クルルは慌てて羽ばたきすると白龍の方へ飛んで行った。白龍は既に人型に戻り床に伏している。その様子を目で追うと、仏陀は再び帝釈天を睨みつける。
「天界を……。いや、六界を相手に謀反を起こしたこと、ご覚悟はあるのでしょうな」
「謀反? はあ、まあ今はそういうことになりますかね。今そこで、梵天の軍は這う這うの体で天界に逃げ帰りましたがね」
ふん、と帝釈天は鼻で笑った。亜空間での初戦、梵天率いる天界軍は敢え無く敗れ去ったようだ。百戦錬磨の帝釈天とその軍から見れば、赤子同然だったのかもしれない。
「驕らないことですな。それは貴殿も重々承知でしょう」
「仏陀殿……」
仏陀の手を振りほどいた帝釈天は、なおも引き下がらない人間を見下ろしてため息をついた。
「貴方様を傷つけることは、いかな私でも躊躇いたします。これは天界人の戦。貴方はもう人間界にお帰りください。今、貴方の教団は前代未聞の危機に瀕しておりますぞ」
帝釈天は口角を上げて嫌味たらしくそうのたまう。仏陀はクベーラに拉致されたとき、替え玉を送られていた。クベーラの配下にいた、人型を模倣できる夜叉だ。そいつが今人間界で問題を起こしているのは火を見るより明らかだった。
「ささ、ここにその入り口を作ってさしあげます」
帝釈天はさっと指を動かすと、仏陀のまえに大きな穴が口を開けた。流道だ。
「貴殿の思うようにはならない。阿修羅を置いて行けるとでも思うのか!?」
「阿修羅? そこに伸びているのなら、それは私のものだ。今から連れて帰る。だからそこをどいてもらいますよ。仏陀殿」
筋肉太りした腕を伸ばすと、仏陀の肩を掴んだ。その手にぎりぎりと力を込める。仏陀は両足を踏ん張って対応するが、顔が痛みに歪んでいく。
「や……やめろ! 帝釈天!」
その仏陀の背中で声がした。まだ大きな声は出せないようだったが、はっきりとした滑舌、よく通る声だ。阿修羅がゆっくりと起き上がる。少しずつ、麻痺が解け、痛みも幾分和らいだ。
「阿修羅! うわっ!」
仏陀が後ろを振り返ると同時に、帝釈天が仏陀を無造作に床に押し倒した。たまらず床に転がってしまう。
「阿修羅、動けるようになったか。早いな。道具屋め。余計なことをしやがる」
「帝釈天、勘違いするな。シッダールタを傷つけることは許さん」
ふらふらと立ち上がる阿修羅。だが、まだ足元はおぼつかない。立っているのがやっとのようだ。
「もう、いい加減に思い出せ。こんな坊主に、おまえは本当に惚れたのか?」
「貴様、一体なんのことだ!? ずっと私に思わせぶりなことばかり繰り返しているのは何故だ!?」
「聞きたいか? ならば教えてやろう、それは……」
わが意を得たりと言わんばかりに帝釈天の瞳が光る。思わず零れる笑みを隠すことなく口を開いた。
「やめろ、帝釈天! 阿修羅にはまだ時間がいるんだ!」
だがその時、仏陀が二人の間に割って入り、自分より頭二つほどデカい帝釈天に詰め寄った。
「シッダールタ? どういうことだ? おまえは何か知っているのか?」
阿修羅は真っ赤な瞳を見開いて仏陀の顔を覗き込む。その目に仏陀はあからさまに狼狽えた。
「阿修羅、それは!」
「ああそうよ! この御仁は何もかも承知だ。あの悟りを得て仏陀となった日に、全てを知ったのだ! 私とおまえのことも!」
帝釈天が高らかに吠える。阿修羅は自分の体に得体の知れない恐怖と不安と不快感、そんな負の感情が巡って走る。目の前にある全てのものが、自分が信じていたものと違うかもしれない。足元の床も消えてしまう不安。大きな真っ黒な穴に放り込まれ、底なしの闇に呑み込まれていく。
「阿修羅、違うんだ。話を聞いてくれ!」
「よ、寄るな。シッダールタ。私に触れるな」
阿修羅が二歩三歩、後ずさりしたとき、『黄金の天車』が大きく揺れた。と同時に大気を揺るがす轟音が何度も鳴り響いた。
――――ラタンラタトバランタン
大きな衝撃で阿修羅達は再び床に叩きつけられた。闇に包まれる意識の中で、阿修羅はまた意味のない音の羅列を聞いた。
つづく
どうなる!? どうする!?




