第三十五話 真言
シリアス展開になってます。それはもう止められない性。
周りに気配がないことを確認して、阿修羅は転がるように階段を降りた。その先にも誰もいない。少し妙にも感じたが、とにかくリュージュを助け出さなければ。その一心で先を急いだ。
「リュージュ! ああ! 無事でよかった」
一番奥の独房にリュージュの姿を見つけた時、阿修羅は安堵でその場に膝をついた。
「阿修羅! すまん、下手うって……。おまえ達を危険に晒してしまった」
「いや、それはいい。とにかくここを出るんだ。いつまでも放置しておいてくれないだろう」
「白龍はもう大丈夫だ。治療できたよ。あ、おまえも怪我してるじゃないか。ちょっと待ってろ」
膝を折り独房の扉を見ている阿修羅に、リュージュは急いで手をかざす。
「私は平気だ。それより、この扉は科学的なロックが施されているな。天界の独房と似ている。そこどいてろ」
扉の近くに寄っていたリュージュを奥に行かせると、阿修羅は手の中に小さな電気の塊を作る。パチパチと音のする球を扉の鍵らしきところにぶつけた。突然の火花が扉で弾ける。まるで夏の花火のようにそれはパチパチと弾ける音を残し、辺りを一瞬明るくしたかと思うと砕け散った。
鈍い金属音とともに、扉が無造作に開いた。『天界科学』とでも呼べるだろうか、術とはまた違った技術で閉じられた錠は阿修羅の攻撃でショートを起こしたようだ。
「開いた!」
リュージュは扉が開くと同時に飛び出す。すると思いがけず、目の前にいた阿修羅が抱きついてきた。腕の中で阿修羅が『良かった』と吐くのが耳に届いた。
「え?!」
嬉しいより驚きが先に立った。リュージュは短く声を上げた。そしてその声に、抱きついた阿修羅がはっとした。思うよりも行動が先に出てしまった。阿修羅は自分でも驚いて、慌てて体を離す。
「すまん。思わず……。それと、これ。おまえのだ」
なんだか微妙な空気が流れたが、そんなことに構っている時間はない。阿修羅は白龍から預かっていたリュージュの剣を、照れ隠しなのか乱暴に手渡した。
「あ、ありがとう。助かる」
受け取ったリュージュは剣の鞘を見て言葉を失った。白龍のものであろう血がべっとりと付いている。あいつ、本当に重症だったんだ。改めて危機的状況だったことを知る。自分の無事を確認して抱きついてきた阿修羅の気持ちがわかるような気がした。
だが、再会を喜んでいる時間も余裕もない。二人は急いで階段を駆け上り、屋敷内を走った。
「カルラ達の居場所はわかるか?」
同じように捕らえられたカルラ達はリュージュのいた牢の周辺にはいなかった。
「いや、俺が巡らした思念波には触らなった。この屋敷にはいないのかもしれない。あ、そうだ、阿修羅。おまえを見つける前にオレ感じたんだ。多分、カリティ様の居場所がわかったと思う」
「本当か!? 言うのが遅いな! よし、助けに行こう。どっちに行けばいい」
先ほどまでの微妙な空気を打ち消すように、阿修羅の表情はぱっと明るくなった。元々ここに潜入したのは、カリティ様を救出するのが目的だ。やられっぱなしで帰るのは流石に夢見が悪い。
「ここをまっすぐだ。ただ……」
「ただ? なんだ」
「例の兄弟がそばにいる」
先行する阿修羅が立ち止まって振り返る。そして、自嘲するように笑みを浮かべた。
「だとしても、行くという選択肢しかないが?」
リュージュは「そうだな」とこちらも唇の右端を上げて応じた。怖くないと言ったら嘘になる。宝賢の鏡も満賢の技量も、まだ対抗しうる手立てはないのだから。
宝賢、満賢兄弟の豪邸の最上階。庭のような広いバルコニーのついた部屋で、たっぷりなドレープのドレスと花柄の刺繍が入った帯を纏った夫人が所在なさげにしていた。
散支夜叉の奥方、カリティである。
いつもは庭の離れに閉じ込められていたのに、今夜は急にこの場所に連れてこられた。どこも待遇は同じようなものだが、外が何か騒がしい。一体何が起こっているのか、全くわからないのが不安な理由だった。
しかもこの部屋のバルコニーには、一戦を交えんとばかりに多数の夜叉兵が敵の来るのを待っているようだ。もしかしたら、自分を助けに来た人がいるのかもしれない。だが、この数だ。苦も無くやられてしまうのではないか。そんなことも心にさざ波が立つ原因だった。
「ここに幽閉されてどのくらいの時が流れているのか……。愛しいあの人はどうしているだろう。兄弟の話によると、あの人はあいつらの仲間になったなどと。まさかとは思うけれど……」
腰まで届く黒髪を束ね、ゆっくりと結う。髪留めを使ってまとめ上げた。女らしいウエーブをもった胸から腰をくねらせて座り直す。
カリティはここに来てから、兄弟に指一本触れさせることはなかった。自らの命を賭けて操を守っていた。
「あの野蛮人に触られるくらいなら死んだ方がましだ」
カリティは一つだけ攻撃の術を持っていた。その術を使えば、恐らく自分の周りにダメージを与えられる。だが、兄弟のような強靭な体や防御力を持っていれば、致命傷にはならないだろう。だからその術は自分に向けて使う以外武器にはならない。自分の命を盾にして自らを守った。
真言。それが彼女を守る唯一の手段だった。天界にいる位の高い神なら、誰もが一つずつ持っている必殺技だ。これを唱えることで、攻撃に転じられる。桃のように瑞々しい肌も艶やかな肢体も砕け散ってしまうが、それも捨てる覚悟があった。
二人の兄弟は、彼女の気持ちを振り向かせようと毎晩離れに足を運んでいたが、それが叶うことはなかった。カリティは頭の良い女神だったので、彼らが自分を口説くことに飽きてしまわないよう上手に振る舞い、しかし心も体も決して許さなかった。
そのうち兄弟も考えて、散支が自分達の仲間になったからもう帰るところはないとカリティを揺さぶり始めた。だが、カリティはそれにも靡かなかった。自分の夫がそんな事をするわけがない。そう信じて疑わなかった。
もし散支が兄弟の仲間になったのなら、何か考えがあってのことだろう。それが今日の突然の部屋替えと関係があるのでは。カリティはそう想いを巡らし、同時に何か事が起こった時に動けるよう、身構えていた。
そんなカリティの居場所を突き止めた阿修羅とリュージュは、バルコニーに続く階段を昇っていた。道すがらにいた見張りの夜叉は二人の刃の元に討ち果たされている。カリティが拉致されている部屋は、この屋敷の最も上にある。入り口はバルコニー側に一つと部屋の奥に一つ。
「宝賢、満賢は、今はいないみたいだ。でも、そう遠くない位置にいる」
目を閉じて思念波を送り周囲を探る。今までは容易にできなかったことも、どんどん可能になってきた。リュージュの能力は覚醒を続けている。最近とみに力をつけてきた剣技とともに、彼の別の能力が開花しているかのようだ。長い階段を昇って、扉の前に辿り着いた。阿修羅がリュージュに振り返って口を開く。
「よし、リュージュ、白龍を呼んでくれ。カリティ様を救出する」
首を縦に一つ振ると、リュージュは白龍の思念を探る。一度到達した思念にはすぐに届いた。
「行くぞ!」
バルコニーに続く扉を長い脚で勢いよく蹴り上げる。その大きな音にバルコニーで張っていた夜叉達は一斉に音のする方に顔を向けた。だが、そこには誰もいない。
「遅い!」
扉を開け放ったと同時に、阿修羅は跳んでいた。演武場ほどの広さのあるバルコニーの中央くらいまで跳ぶと、着地と同時に剣を振り下ろす。間髪入れずに薙ぐ刃はあっという間に周囲の夜叉の首を狩った。何事が起ったのか知らぬ間に、何人もの夜叉はその場に崩れ落ちる。
「敵襲だ!」
どのくらいの確率でここに阿修羅達がやってくると張っていたのか不明だが、防備はカリティが心配するほどのものではなかった。少なくとも二人にとっては。阿修羅と共に扉を抜けたリュージュも高速の刃で屋敷に迫っている。尤も、あの兄弟が姿を現せば一挙に立場は逆転するだろう。
「何者ですか?!」
一直線に屋敷に向かって夜叉共をなぎ倒していく、阿修羅とリュージュにその声は届いた。
「カリティ様!」
先ほどの偽カリティ様と同じ衣装に同じ顔。だが、明らかに立ち姿は艶やかでありながら気品があった。美しい女というのは、こういう人の事を言うのだろう。同性でありながら、阿修羅は一瞬見惚れた。
「修羅界の王、阿修羅と申します。散支夜叉殿の命により、お迎えに上がりました!」
傅く余裕はなかったので、襲い掛かる夜叉の首を刎ねながら叫ぶ。バルコニーと屋敷を隔てる、ガラス戸の向こうに声は届いただろうか。大きな瞳をさらに大きくして、カリティはこちらを凝視している。そしてその長い睫毛を震わせて大粒の涙がポロポロと零れては落ちた。
「ああ! 散支様……」
そう呟くと、意を決したようにガラス戸の正面に姿勢を正して立った。そして、目を閉じ精神を集中させると、両手で何かの形を作り、唇の中で何か呪文のようなものを唱えた。
「オン ドドマリ ギャキテイ ソワカ」
「え……?」
向かってくる夜叉を振り向きもせず一刀にしながら、阿修羅はカリティから目を離すことができなかった。
言葉を発した途端、カリティの体を光が覆った。そして彼女を外に出さないために呪術を帯びたガラスが、一瞬にして粉々になり崩れていく。
「マン……トラ……」
阿修羅は自分の意志ではないどこからか流れてきたその言葉を口にした。
長いドレスを翻し、砕けたガラスを恐れることもなくカリティが走り出る。はだしの足は血まみれだが、何の迷いもなく阿修羅の元へ駆け寄った。
「阿修羅様!」
だが、阿修羅はまだ今起きたことに茫然としている。
「阿修羅! どうした?!」
心ここにあらずの阿修羅の元に駆けつけ、彼女に迫る夜叉を片付けたリュージュが声をかける。ようやくはっとした阿修羅はカリティの右手を取った。
「ご、ご無事で! 今すぐ奥方様を安全な場所へお連れします!」
「よくぞ、このようなところまで……」
ふわっと桃の花のようないい香りが阿修羅の鼻腔を掠めていった。天界で嗅ぐようなキツイ香りではない。優しく大人びた香りに、阿修羅は何か懐かしさを感じた。
「よくここまで辿り着いたな」
だが、もちろん世の中そんなに甘くない。カリティが粉砕したガラス戸から、真っ赤な髪に金色の瞳を持つ大男と、紫の髪の、さらに一回り大きくした男が自慢の矛を携えて、まさに今、出てこようとしていた。
つづく




