最終話 エピローグ5 辿り着いた場所
最終回。
第五十七話 いつもいつの時でも の場面から続いています。
「師よ。貴方と貴方の教えを守り、共に生きることをお許しください」
「扉は既に開かれている。いつも、いつの時も、私はおまえと共にあるのだから」
仏陀の差し出した右手の上に、阿修羅は自らの右手を乗せる。そして、胸で揺れていた三角形のペンダントトップを左手で握った。その途端、仏陀は不意に自分の体が引き延ばされるような感覚に陥ると、眩暈に襲われた。
「大丈夫か? シッダールタ」
気が付いた時、仏陀は片膝をついていた。ゆっくりと頭を上げると、今までいた景色とそこは一変している。
「驚いたな。新しい術か?」
立ち上がり、周囲を見回す。そこは修羅王邸の癒しの場、蓮池の畔に臨むテラスだった。周りの景観を損なわないように白木で作られたテラスの上には趣味の良いテーブルと二人掛けのベンチが置かれてあった。蓮池には桃色の蓮華がここぞとばかりに咲きほこっている。
「いや、カルマンの道具だよ。あいつらは術師以上だ。驚かせてすまなかった」
阿修羅は仏陀に椅子に座るよう促すと、自らも腰を下ろす。目の前の桃色と緑の見事なコントラストにほっと息をついた。
「この修羅王邸は、私が天界で住んでいたころの屋敷に似せられている。ここを作った私の一族の者が、気を利かせたのだろう」
「そうか……。このように美しい蓮池を見ていると、私の故郷が思い浮かぶよ。祇園精舎にも見事な蓮池があるからな」
仏陀は先ほどの動揺を抑えるよう、深い呼吸をする。蓮華の甘い香りが鼻腔を通って肺に達し、落ち着きを取り戻していった。隣に座る阿修羅の横顔に視線を移すと、艶やかな唇が蓮の花弁を映したように桃色に染まっている。
「阿修羅、帰依を言葉にしてくれたこと。心から嬉しい。だが何故今、それを形にしたのだ?」
阿修羅は仏陀の修行や布教活動には、極力邪魔をしないよう配慮してきたが、積極的に関わることもしてこなかった。目覚めた人としての仏陀と、自分の愛するシッダールタとは別の人物のようにとらえていたのだ。
「その理由は、おまえもわかっているだろう。意地の悪いやつだな」
少し俯き加減に阿修羅はそう言うと、改めて仏陀に視線を向けた。それに呼応するように彼も阿修羅の方を向いた。落ち着いた朱色の瞳が自分を見ている。仏陀は静かに口を開く。
「おまえの言葉で聞きたいのだ。大事なことだから」
深い藍色の目に促され、阿修羅は言の葉を紡いでいく。うなじに残る後れ毛が幾重にも重ねられた瓔珞にかかる。白い肌が眩しい。
「帝釈天と戦っている時、あいつの苦悩が見えた。あいつには苛立ちと憎しみの感情しか持っていなかったのに。なぜか、哀れに思えて……」
あの激戦のさなか、阿修羅はふと自分に流れ込んできた帝釈天の感情に気付いた。
「その時、今まで気が付きもしなかったのに、何故理解し、歩み寄ることができるのか考えた」
阿修羅は自分の『感情』を探った。瞬きの間よりも短い時間で。そして見つけた。
「私は前々世で、帝釈天を愛したと思っていた。そして裏切りに合い、憎しみのままに剣を取った。だが、それは歪んだ愛でしかない。帝釈天と同じ、所有愛でしかなかった。それに気づいた時、私はようやく理解した」
黄金の天車の中で眠り続けた阿修羅。過去を遡ると同時に、自分の想いの変遷を知った。それは自分でも気が付かなかった発見でもあった。
「何の力も持たず、短い命をもがくように生きる人間となったことで、私は本当の愛を知ることが出来た。自らの命も惜しまずに愛した。身を挺して愛することを、おまえが教えてくれた」
「それは違う。教えられたのは私のほうだ。こうして『仏陀』となったのも、阿修羅のおかげだ」
仏陀は真剣な眼差しで阿修羅を見た。眼前の少女は落ち着いた様子でいつもより大人びて見える。そしてゆっくりと口元をほころばせると、言葉を続けた。
「気が付けば、以前の私にはなかった感情が芽生えていた。仲間を信じ、人を思いやること。だからこそ、あの憎き相手の感情も理解できたし、哀れだと思いやれた。そんな今まで考えもしなかった気持ちが私に宿っていた。いつの間にか、私のなかにいた。おまえの姿をして」
――――ずっと共にいたのだな。
「それは、阿修羅自身の力だよ。おまえの心に宿した優しさや思いやりは、元々おまえに備わっていたものだ。おまえは自分の力と知恵で、それを取り戻した」
阿修羅は仏陀の言葉にゆっくりと首を振る。束ねられた黒髪が右に左にと揺れた。
「おまえが私の過去を知りながら黙っていたこと、始めは腹が立ったのだ。だが、今はその理由もわかっているつもりだ。おまえは私を守ってくれていたのだな。それが分かった時、心からおまえと共に生きたいと。おまえに寄り添い、役に立ちたいと思い、言葉にしたのだ」
輪廻の輪の外へと解脱を果たした時、仏陀は過去も現在も瞬時に理解した。そしてこの世の行く末も見渡した。
そのなかで知った阿修羅の過去。仏陀にとって衝撃でなかったと言えば嘘になる。だが、彼女自身が記憶を失い、その過去が不要であるなら、教える必要はないと考えていた。それでも何かのきっかけで記憶が戻るのを案じ、常に彼女から目を離さないようにしていた。結局のところ、阿修羅は自分の力で全てを成し遂げたのだけど。
「阿修羅。私を導いて欲しい」
え? と阿修羅は小さく声を上げた。そして再び仏陀を見る。頭上でまとめられた黒髪から、数本が乱れて肩に降りている。陽の光に当てられて、藍色の瞳がきらきらと輝きを留めていた。
「蓮池の蓮華を見てごらん」
仏陀が袈裟から覗く逞しい右腕を蓮池に向けて指さした。阿修羅はその指の先にある蓮池を眺める。桃色の蓮華が緑の大きな葉の間から見え隠れしている。
「おまえの目に見えているのは、池の水面から首を伸ばして華を咲かせる蓮華だけだろう?」
仏陀の言うように、桃色の花弁を風にゆうるりと揺らしているのは、水面から一生懸命背伸びをしている背の高い花弁だ。
「だが、蓮池には、水面すれすれにいるもの、中には水の中に沈んで咲いているものもいるのだよ」
阿修羅は頷く。確かに上から蓮池を覗くと、水面すれすれに咲かせている華、水の奥底で咲き、うっすらと影だけを見せる華もあった。阿修羅は見える見えないは別にしても、どの華もその立場で咲こうとするいじらしさを感じていた。
「私が悟りを得て、市井の人々に教えを説こうとしたとき、考えたことがあった。水面から顔を出して咲き誇る蓮華は良く聞き、良く考えて教えの道に到達する。だが、水面すれすれの者は強い導きがなければ救えない。彼らのような者のために私は必要なのではないかと。私は善悪の間にいるものを救うために生きようと思ったのだよ」
華を水面高くある人は、耳も良く聴こえ、知恵もあるのだろう。太陽の恵みを全身に受け、幸も多かろう。だが、善悪の狭間に浮かぶ者は、しっかりと教え諭さなければ水面から上がって来られない。そのように仏陀は考え説いてきた。
「だが、阿修羅、おまえは違う。おまえは水底に沈む華まで手を伸ばし、教えの場に連れ出したのだ。帝釈天しかり、クベーラ始めとする四天王も」
「それは……」
「おまえには不思議な力があるのだ。私にはできないことだ。どうか、これからも私を助けて欲しい」
阿修羅が仏陀の方に顔を向ける。丁度逆光になり、髪の先がキラキラと光を宿した。まるで後光が差しているように美しい。
「私がおまえの役に立つならなんでもしよう。永遠に共にいると誓ったのだから……」
阿修羅の言葉に満足そうに頷く仏陀。再び眼前に広がる蓮池に視線を映した。ふと気が付くと、右半身に暖かな気配と重みが遠慮がちに伝わった。
「疲れたのか?」
「いや、少しこうしていたい」
「少しでなくてもいい……」
阿修羅は仏陀に寄り添うように自らの体を委ねる。右肩に頭をこつんと乗せた。自然と手を繋ぐ。お互いの体温と血脈の流れが体内を巡り、その温もりを愛おしく思う。
遠くの森で小鳥達が噂話をするようにさえずっている。涼やかな風がそよぎ、光満ち溢れて己を包み込んでくれる場所。優しい瞳を投げかける人々の姿が脳裏をよぎっていく。幾つもの戦いを越え、悠久の時の果てに阿修羅はようやくそこに辿り着いた。
完結
ご愛読ありがとうございました。
皆様の支え無しではここに辿り着くことはなかったでしょう。
阿修羅共々、この場所に来れたことを心から感謝します。
またいつか、彼らの物語を書きたくなった時にお会いできればと思います。
ありがとうございました。




