第五十九話 エピローグ2 仇敵たち
修羅界、天界に阿修羅が仏陀に帰依したことが瞬く間に広がった。阿修羅をよく知る人にとっては今更感があったが、修羅界の王としての阿修羅しか知らない者にとっては驚きをもって迎えられた。そして、ある人物も帰依したことがわかると、天界の神々達は、こぞって仏陀の元に傅いた。
ある人物、それは誰でもない、帝釈天その人である。
元々、帝釈天は仏陀が悟りを得て天界に上ったとき、梵天とともに帰依していた。だが、今回の謀反でもわかるように、それは形ばかりのもの。今回の帰依は口約束では済まなかった。
「釈、もう出立しますよ。ご準備を!」
ゴールドブラウンの髪をすっかり丸め、大きな体を袈裟に纏わせた帝釈天が、仏陀の一番弟子アナンに怒られている。帰依した帝釈天を、修行僧たちは仏陀に倣って『釈』と呼んだ。
帝釈天は慌てて身を整えると、一団の末席に並んだ。
既に早朝の修行を終えた仏陀の弟子たちは、只今から托鉢に出かける。それが終われば、頂いたもので朝餉の準備だ。
「どうですか? 慣れましたか?」
冷やかし半分の目つきで聞いてきたのは、同じく修行に精を出す、四天王のバクシャ(広目天)だ。バクシャは足を負傷した体で、そのままクベーラを頼って人間界に降り、仏陀の教団に帰依していた。残りの二人も同様だ。
「大丈夫だ。気にするな」
咳払いを一つして、帝釈天が答えた。ここでは明確な上下関係はない。より智慧の深いものが尊いとされていたが、命令系統はなかった。より知る者が迷う者を教え導く。迷う者は知る者から学び、またそれを無知なものに教える。
「帝釈天殿。一つ教えて欲しいことがあります」
バクシャは托鉢へ向かう道すがら、帝釈天に尋ねた。吹き飛ばされた右脚は既に完治し、逞しい両足で地に立っている。
「もう殿はいらない。皆に倣って、『釈』と呼べばいい。何が聞きたいのだ?」
『釈』で良いと言われても、何万年も仕えてきた王においそれとは呼べない。バクシャは困惑しながらも言葉を続けた。
「最後の戦いのとき、貴方は私に『退却したければ、勝手に下がれ』と言いましたね」
バクシャは大怪我をした体で、本陣で苦戦する帝釈天に退却を進言した。だが、主はその時、一瞥しただけでけんもほろろに追い返したのだった。
「ああ、そうだな。確かに言った。それが?」
「師にそのことを訴えた時、こう言われました。貴方が私の怪我を見て言ったのだから、それは優しさだと。私がもう戦えないのを見て、下がれと言ったのだと」
教団の僧たちの祈りの声が聞こえる。こんな無駄口を叩いていると、また誰からか怒られそうだ。仏陀が発した有難い言葉や教訓を歌のように唱える。それを道行く人々や市井の人々に聞かせながら、施しを受けるのである。
帝釈天は、わずか数週間前の自分を想い馳せる。立派な髪に美しい鎧、鋭い大剣。勇ましい黒い天馬。
――――優しさ……か。そんな気持ちが、あの時の私に浮かんだろうか……。
「はは……。優しいのは師の方だろう。あの時の私にそんな余裕、あるはずがない。師もそれはお分かりだ。それでも、おまえにそう仰ったのは、おまえの憎しみを和らげるおつもりであったと思うぞ……」
バクシャは自分の心に一陣の風が走ったのを感じた。その風はいつまでも居座っていた雲を浚って消していった。
「そう……ですか。ありがとうございました」
「うん? 何故礼を言う?」
「いえ、忘れて下さい……」
「後ろの二人、私語が多いですよ」
二人の前を行く修行僧が、ちらりと振り返って諫めた。二人は首を垂れて謝罪すると、また祈りの言葉をつぶやきながら歩いて行った。バクシャはそっと帝釈天に向かって両手を合わせる。
――――貴方に仕えていて良かったと。今なら思えます。
一方、『祇園精舎』に留守番組のシュリーは、子供に返ったクベーラの世話に追われていた。クベーラはおよそひと月で一歳のスピードで成長していた。今はもう四歳くらいだ。次の雨季の後には、仏陀とともに旅にも出られるだろう。
そうなれば、帝釈天とも同行することとなる。シュリーは彼の王が、祇園精舎に連れて来られた時のことを思い出す。憎々し気に睨むシュリーに帝釈天は頭を下げた。
「驚いたね。天下の帝釈天が首を垂れるとは。でも、そんなことで許すわけには……」
「シュリー。おまえもクベーラも、帝釈天に救われたのだ」
「え? 何を言ってるのさ。私達を救ってくれたのは、仏陀、貴方じゃないか」
まだまだ口が悪い女神だが、毒気は随分消えている。仏陀は笑って答えた。
「釈がいなければ、おまえ達が私の元にくることはなかったろう? 私はおまえ達に場所と時間を与えただけだよ」
「それは…‥‥、そうだけど……」
「物事には因があって結果がある。それをどう生かすかが人に任された分だよ」
仏陀にそう言われ、シュリーは黙り込む。隣では右手の指をくわえ、左手でシュリーの着物を掴むクベーラが帝釈天の顔をじっと見ていた。その姿を眩し気に見る帝釈天は、跪きながら口を開いた。
「すまなかった。クベーラもシュリーも本当の愛に辿りつけたのだな……」
何かを狙ったわけではない。二人の尊い姿に自然と膝を折ったのだった。それを満足げに見つめる仏陀。シュリーは驚きを隠せない様子であったが、やがて小さくため息を吐いた。
「そうだね。とんだ回り道をしたけれど……。私は、子供を産めない性分らしい。でも、こうして大好きな人を育てる喜びをもらった。感謝するよ」
その言葉に益々深く頭を下げる帝釈天だった。
祇園精舎には病に伏したり怪我をしたりで、教団と共に旅立てない修行僧も何人かいた。シュリーは広々とした寺の中で、居残った医師や薬師とともに彼らの面倒も見ていた。クベーラも楽しそうに手伝いをしている。
夕餉の良い香りが寺を覆う時間になると、病人たちも鼻をひくつかせ、床から身を起こす。シュリーは、これほどに満たされた気持ちでいるのは何時ぶりだろうかと思う。もしかすると、初めてかもしれない。ゆっくりとした時間が流れていく。目の前でクベーラが小さい手でお皿を並べている。愛おしそうにその姿を見つめた。
竹林に囲まれる、人の姿もまばらな祇園精舎。夕餉を告げる鐘の音が厳かに響いた。
つづく
エピローグ3に続きます。
エピローグ3では、阿修羅組のその後をお伝えします。




