第五十七話 いつもいつの時も
貴様は、本当は不器用な男だったのだな。王ゆえに孤独で、自由を振る舞いながら、誰よりも不自由だった。
そして私も……。幼い頃から一族を背負い、戦いに明け暮れていた。彼らが天界の片隅で生き永らえるためには、戦神の存在を護ることが必要だったから。
帝釈天、おまえは阿修羅琴で何を奏でるつもりだったのだ? 私の心を変えようとしたのなら、いかに琴の力を借りようとそれは無理だっただろう。なぜなら私はもう、あいつと一つになっているのだから。
目の前には深い森が見える。大きな樹々が朝陽を浴びて新緑をキラキラと輝かせている。色とりどりの小鳥たちが我が世の春とばかりに柔らかな空気を縫うように飛び回っていた。阿修羅はそれを眩し気に見つめ、耳を澄ましている。やがて、光を取り込む長い睫毛をゆっくりと閉じ、ただ小鳥たちの歌声だけを追った。随分と長い時間が過ぎたものだと思う。
「阿修羅王、こちらにおられましたか」
目を閉じて、体を柔らかな椅子に委ねていた阿修羅に白龍が声をかけた。阿修羅は自室に繋がるウッドデッキ、そこに置かれたソファーに身を沈めている。
帝釈天との戦いに勝利してから、早くも一週間が経っていた。
「仏陀様が来られましたよ。もう、お会いになるのでしょう?」
梵天が勝利を六界に知らしめた直後、仏陀は阿修羅の元を訪れた。だが、彼女はまだ会えないと断っていた。以前のような我儘や怒りからではなく、心を落ち着かせてから会いたいのだと言って。仏陀は阿修羅からの伝言を受け取ると、安堵した笑みを浮かべて頷いた。
「ああ、私が呼んだのだよ。ありがとう。今日は風が気持ちいい。ここへお連れしてくれるか」
「承知しました。すぐにお連れします」
一時は遮断していた仏陀との絆、実は帝釈天との戦いのさなかに再び繋がっていた。繋がっていたというのは少し違うかもしれない。阿修羅が突然、仏陀を自分の中に迎え入れたのだ。
その時、仏陀は旅先の寺で座禅を組み、瞑想に身を委ねていた。異世界で戦う阿修羅を想い、無事を祈りながら深く深く意識を潜らせていた。そこに大きな湖面のような意識が流れ込んで来た。広く、深く、しかし澱みなく波立たず静かな湖面。
――――阿修羅……。おまえなのか? 激戦を演じながら、なおも静まりつくす内面。おまえが負けることなど、あるはずがないな。そうか、もう、そこに私がいたのだな……。
仏陀は阿修羅の目を通して全てを見ることができた。だが、何もせず、何も語りかけず、ただそこにいた。生きとし生ける人々の心に、愛と信が存在するように。
もう二度と会わない。輪廻六界で生き惑う魂が待ち望んだ救世主。過去を思い出した直後、阿修羅は、自分が仏陀の傍にいてはいけないとまで思った。だが、帝釈天と一対一で戦っているとき、突然自分の変化に気が付いた。
――――なぜだろう。今なら帝釈天の気持ちがわかる……。あの男が欲してやまなかったものが。二千年戦っても、わからなかった。いや、わかろうともしなかった。
それと同時に、自分を支え、共にいてくれた仲間たちのことを思った。裏切らない。そんな言葉が存在すらしないほどの強い絆があった。
人を思う気持ち。許す気持ち。信じる気持ち。誰が教えてくれたのか。そう思ったとき、豊かな黒髪を揺蕩わせる、深い藍色の双眸が心に浮かんだ。阿修羅はそっと二本の指を唇に押し当て、祈るように目を閉じた。勇気と輝きが胸に満ちるのを感じた。
その後は、何が起ころうと負ける気はしなかった。憤りも焦りも感じなかった。帝釈天の懐に飛び込み、腹に剣を突き付けたときも、憎しみのかけらもなかった。
阿修羅はもう恐れなかった。自らの心を開放し、瞑想していた仏陀の思念が流れ込んでくることも拒まない。いや、むしろ迎え入れていた。
――――ずっと一緒だったんだ。気付きもしないくらい。おまえは私と共にいてくれたのだな。
阿修羅はウッドデッキに置かれた椅子から、ゆっくりと立ち上がった。清々しい風が目の前に広がる新緑の原を滑って行く。風に誘われるように階段を降りかけた時、背後で声がした。
「阿修羅、ご苦労だったな」
仏陀の声だった。聞きなれた声量のある低音。阿修羅は歩を止め、振り返った。そこには、白の地に紺色の帯を配した涼し気な袈裟を身に纏った仏陀が立っていた。長い髪を結い上部でまとめ、いつもより畏まった風情なのはこれから起こることを知っていたからなのか。
阿修羅は仏陀と視線をまっすぐに合わせた。朱色の瞳は潤んで輝き、仏陀の藍色の瞳を捉えて離さない。阿修羅は体中の血液が心臓へ押し寄せ、体温が上がるのを感じた。
だが、いつものようにその気持ちを爆発させることなく、落ち着いた足取りで仏陀の元に進むと、徐に傅き頭を下げる。束ねた黒髪が肩口から胸へと流れ落ちた。
「師よ。貴方と貴方の教えを守り、共に生きることをお許しください」
仏陀は一瞬の間を置いた後、胸の前で両手を合わせ、ゆっくりと頷いた。
「扉は既に開かれている。いつも、いつの時も、私はおまえと共にあるのだから」
再び、阿修羅が顔を上げる。眼前に陽に焼けた右手が差し出されている。彼女はそっと自らの白く長い指を重ねた。
エピローグに続く
第二部本編完結となります。
エピローグに続きます。




