第五十一話 遮断
天界で二人の王が生死をかけた戦いを繰り広げている時、人間界では仏陀が額に汗をしていた。修羅界での後始末を終え、ようやく戻った人間界は、帝釈天の言う通り教団の存続が危ういところまで来ていた。
天界と人間界では時間の経ち方が違う。人間界の方が圧倒的に速いのだ。今までは魂だけの移動だったので、簡単に時を遡れたが、今回は肉体ともども誘拐されたのでそうもいかない。だがそうは言ってもこれは天界の落ち度、梵天の計らいで仏陀が拉致された一週間後になんとか戻ることができた。
教団は、旅に出たのも束の間、仏陀の身代わりの夜叉が不衛生な旅を嫌がり、雨季の滞在場所である『祇園精舎』に戻ってきていた。彼の宿舎である寺の簡素だが清潔な一室で、一番弟子であるアナンが仏陀を迎えてくれた。
「アナン、留守をすまなかったな」
「師よ、ご無事でなりよりです。もうお会いできないのかと絶望したこともございました」
出家より付き従ってくれたアナンは、仏陀がシッダールタだった頃からの部下である。彼が出家した直後からずっと共に道を歩み、悟りを得て教団を興した時には一番弟子に名を連ねた。
「こいつが師ではないと、すぐわかりましたので、捕らえておきました」
部屋の隅には仮にこしらえた牢屋があり、そこに捕らえられた夜叉が転がっていた。元々変化以外は力のない夜叉だ。仏陀はまだ修羅界にいる夜魔天に連れ帰ってもらうよう依頼をした。
アナンは仏陀の身代わりになった夜叉が、仏陀本人でないとすぐに見破った。まあこれは誰が見ても明らかと言えばそうなのだが。そして信頼がおけ、腕っぷしに自信のある弟子たちと共に縛り上げたらしい。修行僧の中には武士階級出身の者も多く、捕獲は思った以上に簡単だった。
仏陀不在の間は、アナンが教団を取り仕切っていたが、仏陀が超絶美人女修行僧のシュリーと共にいなくなったことに疑念、不満の声が日が経つつれに大きくなり、アナンとしてもそろそろ限界だった。
「しかし、本当にシュリーとご一緒だったとは……」
戻って来た仏陀が同時期にいなくなった女修行僧、シュリーと一緒だったことにアナンは眉を顰める。疑いたくはないが、これでは他の弟子や修行僧に説明がつかない、といった表情だ。
「仕方あるまい。大体私はこれらに拉致されたのだからな。まあ、それは良い。シュリーは『祇園精舎』で修行させる。子連れで旅するのは難しいだろうから」
「え? 子連れ?」
目を見張るアナンの前に赤ん坊を抱いたシュリーが微笑みながら現れた。仏陀と共にどこからともなく現れ一瞥した時、何を抱えているのだろうと思っていたが、まさか赤ん坊とは。俄かに泣き出した赤ん坊にシュリーは「おーよしよし」と声をかけてあやしている。
「ま、まさか仏陀様……!」
腰を抜かさんばかりに狼狽えるアナン。それを見て仏陀は呆れた顔をしてため息を吐いた。
「おいおい、信用無いなあ。アナン、これは訳あって赤子に返ったシュリーの夫だ。心を入れ替え、二人して私の弟子となったのだ。いずれ教団の役にも立ってくれるだろう」
納得できる言い訳ではなかったが、仏陀の言葉は真実として受けなければならない。アナンは一体どうやって教団の面々に説明すればいいのか頭を悩ませた。その自分の愚考に気が付いたのか、仏陀は優しく言った。
「アナン、心配かけてすまなかったな。だが、もう案ずることはない。皆には私が話そう。言えないことも多いが、嘘はついていないし、おまえ達を騙すつもりもない」
アナンはいつも通りの仏陀の様子に、安堵した。そしてたった一週間不在だっただけで、これほどに浮足立つ自分を恥じた。子をあやすシュリーからは、以前の肉食獣のような獣臭を感じられなくなっていた。母の慈愛と穏やかさすら覚える。
――――まだまだ修行が足りないな。
アナンは仏陀の着替えと湯あみの準備を手伝う。嵐が吹き荒れる寸前だった人間界も、ようやくいつもの平穏を取り戻す。
だが、仏陀の心はそれでも決して穏やかではなかった。阿修羅が天界の善見城へ攻撃をしかけた時、唐突に彼女の思念が解放された。天車に張り巡らされた結界が切れたからだ。
――――だが、彼女は自分の意志で、自分の心を閉ざしている。私の呼びかけを遮断している。
彼女が戦いに向けて己の全てを賭けているのは、まるで心を焦がすような熱から感じることはできた。だが、仏陀の呼びかけには一切応じてこなかった。そこに彼女の姿が透けて見えるのに、分厚い壁が立ちはだかり自分の思念を通すことはできなかったのだ。仏陀はただそこに立ち尽すことしかできなかった。
――――白龍、リュージュ、今はおまえたちに任せよう。だが、必ず助けにいくよ。そのためにずっと黙っていたのだから。
自室に繋がっている湯あみの場所へ向かい、仏陀は袈裟を剥ぐようにして裸になる。そこには暖かい湯が桶に張られ、白い湯気を立てていた。
僧とは思えないほどの肉体美を持つ仏陀は、自身が思いのほか傷を負っていることに驚いた。クベーラ王に拘束されたり、帝釈天に投げ飛ばされたときに付いたものだろうか。仏陀はそれを癒すようにゆっくりと濡れた布でふき取っていく。耳を澄ませば、弟子たちの読経が低音を響かせ、若葉茂る『祇園精舎』を覆っていた。
阿修羅は天車の結界から飛び出した時、猛々しい思いを放ちながらも、暖かいものが己の心に触れるのを見逃さなかった。
――――シッダールタ……。良かった、無事に人間界に戻ったか。
だが、それを確かめた刹那、自らの強固な意志で繋がっていた糸を遮断した。この戦に彼を巻き込みたくない一心だった。
帝釈天との戦いは熾烈を極めるだろう。自分はもしかして危機に瀕するかもしれない。そうなったとき、仏陀は迷わず自分を助けに来る。だが、それを阿修羅は望まなかった。この戦は天界人であった時、自らが捲いた種だ。それを自らの手で刈り取る。人間界、しいては輪廻界六界全ての救世主である仏陀の手を借りることなどあってはならない。彼は自分が命を賭して守り、道へと導いた全ての魂の宝なのだ。
――――そのような人と恋人などと……。愚かにもほどがあるな。私は、私は夢を見ていたのだ。今ならわかる。何故あいつが私の前々世を黙っていたか。
阿修羅は再び剣を持つ手に力を込める。豪雨が視界を遮るなか、返り血が飛び、雷撃が迸る。体力と熱が奪われていく。
「進めー! 動きを止めるな!」
それでも今は進むしかない。トウリ天を覆う雷雲の下、両軍入り乱れる激闘はいつ果てることもなく続けられた。
つづく




