第五十六話・ありもしない噂話
散々泣いて目元を真っ赤にしつつも気持ちはずいぶんと落ち着いた。
落ち着いたとはいっても、平静とは程遠いけれど、泣き叫びたい気持ちは一段落して、痛む頭を押さえて水分を補給する。
二日酔いはとにかく水を飲むしかない。
(お味噌汁が飲みたいなぁ)
現実逃避のようにこの世界にはない食べ物を連想した。二日酔いの次の日は温かいお味噌汁を飲むとほっとするのは日本人だったら共感してくれると思う。
(お味噌汁……味噌だから大豆? この世界にあるのかしら……)
思考をさらに飛ばして現実逃避をしつつ、私はため息を吐いた。こんなことを考えていても、何の解決にもならない。
だが、いまはなにもやる気がおきなかった。ベッドでぼんやりとしていると、控えめに部屋の扉がノックされた。面倒だな、という気持ちを抑えて、返事を返す。
「失礼します。リーベ様、体調はどうでしょうか」
「あまり、よくはないわ……」
「畏まりました。パシェン様からも今日のリーベ様のご予定は全て白紙にするよう仰せつかっております。ゆっくりとお休みください」
「……パシェン様が」
「はい。退出される際に侍従長に申し付けられております」
こんなときでもパシェン様は私を気遣ってくれている。
だったらなおさら、なぜ浮気などするのだろう。それとも、浮気だと思った私の思考が早とちりだったりするのだろうか。
でも、あの光景は間違いなく浮気だった。
「……お相手、誰だったのかしら」
「リーベ様?」
ぽつん、と零した言葉にメイドが反応する。小さな声だったから聞き取れなかったのだろう。
「なんでもないわ。少し、一人にしてほしいの」
「畏まりました」
立場を弁えているメイドは私の要望に素直に従ってくれる。ありがたいけれど、少し寂しいと思うのは我儘だ。
一人になった部屋で、ため息を堪えて膝を抱える。ぐるぐると頭の中では最悪が流れていた。
(パシェン様に見捨てられるようなことを私がしたのかしら。それともお相手の方がそれだけ魅力的だったの? だれか教えてほしい……)
ぐるぐるぐるぐる。
まとまらない思考は散逸しながら、余計なことばかり考えてしまう。
嫉妬と自己嫌悪がごちゃ混ぜになって、わけがわからなくてあれだけ泣いた後なのに涙がこぼれる。
「うう~」
小さく唸って、私は目元を擦った。赤くなるからいけないとわかっていても、いまは理性より衝動がまさる。
そうしていたら、また控えめにノックがされた。一人にしてとお願いしたのに。
苛立ちを抑えて返事をすると、メイドがアミの来訪を告げた。
アミは私が勉強で忙しいのを知っているから、お茶会の日以外は来ないのに。よほどの急用かもしれないと思って、私はアミの入室を許可した。
「リーベ、ちょっと話が……リーベ?! どうしたの?!」
部屋に入ってきたアミが私の普通じゃない状態に慌てた様子で駆け寄ってくる。その温かさに、また涙がこぼれた。
「あ、あみぃ」
「どうしたの?! いったい何があったの?!」
ぐすぐすと私が鼻を鳴らしながらベッドサイドに駆け寄ってくれたアミに抱き着くと、アミはぽんぽんと小さい子を落ち着かせるように私の頭を撫でた。
ずいぶんと慣れた仕草だと思考して、そういえば、アミには弟がいたのだと思い至った。
「アミは、どうしたの?」
「え? えっと……いまのリーベに伝えて大丈夫かな……」
アミに頭を撫でられて、少し落ち着いた。そっと抱き着いていたアミから離れて用件を尋ねると、いつもはっきりと物事を口にするアミが珍しく口ごもる。
ことんと首を傾げた私に、パシェン様がそのままにしていたベッドサイドのイスに座って、アミが怖いほど真剣な声を出した。
「落ち着いて聞いてね。――リーベに関するよくない噂が貴族の間に流れているわ」
よくない噂? どういうことだろう。
もしかして、早くも昨夜の醜態が広まっているのだろうか。
聖女で王女である私が街の酒場で酔いつぶれたなんて、醜聞もいいところだ。さすがにまずいことは私だって想像できる。
さっと顔色を青ざめさせた私に気づいたのか気づいていないのか、アミは深刻な表情で言葉を紡ぐ。
「リーベが男遊びをしている。……そんな噂が、広まっているわ」
「おとこ、あそび?」
なんだそれは。酒場の話ではないのか。
肩透かしを食らった気分で私がきょとんとした声を上げると、アミが憤慨した様子で言い募る。
「あんまりだわ! リーベに嫉妬した誰が流した根も葉もない噂よ! リーベにはパシェン様がいるのに!!」
アミが憤る意味が、私にはいまいちわからなかった。
噂なんて火がない所も勝手に立つものだし、裏付けのない噂話は放置しておいた方がいいと思っている。触らず放っておけば、そのうち噂なんて消えるものだ。人の噂も七十五日、と前世の日本のことわざにもある。
アミがここまで怒っている意味が呑み込めない私に、アミはようやく気付いたらしい。怖い顔をして、アミはずいと私との距離を詰めた。
「聞いて、リーベ。これは由々しき事態なの」
「由々しき事態」
思わずおうむ返しに口してしまった。間の抜けた反応を返した私に、アミが深いため息を吐く。
「貴族社会で、こんな噂は致命的だわ。たとえ根も葉もない噂でもね。むしろ、根も葉もない噂の方が、暇人の貴族は好きだから」
「なるほど」
「リーベ、次の夜会は覚悟が必要よ」
真剣に諭すアミに対して、本当に私は事態の深刻さがわかっていなかった。
アミが口にした言葉のその意味を、次の夜会で痛いほど私は痛感することになる。




