真夜中でたらめバーテンダー
シヅクイ・シズクという名の猫耳の魔法使いが歌っていた。
本格的とはとても呼べない、ギリギリ鼻唄の域を脱した程度の気の抜けた歌声である。
「ジョニーが来たなら伝えておくれ。
……
……?」
少し悩んで。
「九時間待ってたと~♪」
「長い長い」
歌詞間違いをモネが急いで訂正していた。
机の上で原稿用紙に消ゴムをかけつつ、作業の手のついでにシズクとの会話のような「なにかしら」に馳せ参じている。
「コーヒー一杯で九時間喫煙席一席占領はもはや営業妨害なんよ」
近くの机でベタ塗りをしているアンジェラがケタケタと笑っている。
「いっそのこと店のモニュメントに就職できるレベルじゃの。生身の肉体使った現代アートなんてアバンギャルドな方々がよだれ垂らして駆けつけてくるじゃろうて」
「そんなエキセントリックな催しする喫茶店に長居する彼女と待ち合わせ出来る彼とは一体……」
「それはもちろん」
間違いの当人であるはずのシズクが原稿執筆の手を止めてまで真剣に悩んでしまっている。
「時間なんて超越するくらい、その彼を愛していらっしゃるのです」
「結論がついたところで」
モネはサクッと話題を変更する。
「さっさと次の掲載分の原稿仕上げんと、いよいよ担当編集に絞め殺されるよ」
彼女らは魔法使い業の傍ら漫画を作っていた。
シズクを中心に成人男性向けのアダルト漫画を誠意制作中である。
「物語も佳境です!」
シズクは片方だけ健康に残っている目を業火のように轟々と燃え上がらせている。
「麗しき人妻は間男の魔なる誘惑に貶められ、その豊かな肢体を快楽の園に宅急便でビームサーベル!」
「ひゅーう」
先生の調子を乗せるようにモネが挑発的な口笛を吹きならす。
「その調子ですよ板ロス先生」
奇妙な名前はシズクが持つペンネームの事である。
その名を用いてシズクたちは今日も原稿用紙の上にオスとメスの乱痴気騒ぎを描き続けている。
「……と言うわけなのです」
「なのです、じゃねえよ、この野郎」
そのやり取りを見守る二人の男性がいた。
片方は、一応ながら少女たちと連なる関係の仕事にいそいそと勤しんでいるようだった。
「嗚呼」
嘆くような声を発するのはルイという名前の男性であった。
かなりきれいな造形をしている個体だった。
可憐さに服を着せて妖艶さに下着を履かせ、耽美的雰囲気と抱き合って寝床についている。そんな感じの作りをしている。
「嗚呼」
そのような作りをしているため、半ば自然現象のごとき理不尽さで彼は周囲に魅惑を振り撒いてしまうのだった。
花が甘い香りを自発的に留められないように、どうしようもなく、ただ美しいだけだった。
「嗚呼、ネタが思い浮かばない」
たとえ、その悩みの内容が真に下らないものであっても、まるで国の一大事のように思われてしかたがない。
「わたしとしても、それこそ国どころか世界を滅ぼしたくなるほどに真剣さを伴った悩みごとなのですが」
ルイはほとんど表情を伴わない顔面で主張を行っていた。
「何だったら今すぐ、この瞬間にクドリャフカ様、あなたの喉笛を掻ききっても良心が痛まないほどには悩んでいるのです。悩み苦しんでいるのです」
「冗談でも言うんじゃねえよ、お前の場合冗談に聞こえねえんだから」
彼らの年の頃は十九歳程度。
限りなく大人に到達しようとしているが、どこか根幹の部分で未熟さが誤魔化せないでいる。
「ご覧なせぇ」
どことなくVシネを想起させる輩口調のような言葉遣い。
しかしそれらを遣おうとするアンジェラはこの中でもっとも幼子に近しい可憐さを有していた。
「見目麗しい殿方が頬くっ付け合っていちゃこらいちゃこら」
アンジェラは見た目の可憐さに凡そ似合わない勢いの下卑た笑みを喉の奥でコロコロと転がしている。
「ご覧なせぇモネのお嬢、貴女の大好物じゃなかろうか?」
「冗談じゃない」
アンジェラの茶化しをモネはにべもなく一蹴していた。
「自分が好きなのは可ぁ愛いらしい小さな小さな声変わり前の男の子が仲良おしとる光景であって、なにもあんな雄々しいひっくい声の成人男性の珍事なんていちいち評価しとれんのよ」
「ええぇ……」クドリャフカは心の内が冷たくなるのを確かに感じていた。
「身に覚えのないやり取りでどうしてこうも酷評されなくちゃならねぇんだよ……っ」
もちろんルイと懇ろの疑いを持ちかけられた事への強い不快感もある。
が、しかしそれ以上にクドリャフカは、
「うううぅ」
モネがいつになく強い疲労感に苛まれている、その光景にソワソワと落ち着かないのであった。
「いや、……ああなっている理由なら既に嫌ってほど分からされちゃいるんだが……」
「ええ、そうですね」
ルイはいつになく、心の底からモネに同情をしているようだった。
普段はもう少し取引先のお偉い方に接するような所作をしているが、今はただ年長者らしい風を吹かせている。
「このままでは煮詰まってしまいます。鍋の底が焦げる前に気分転換へ参りましょう。具体的には水曜日を殺しにいきましょう」
「ほとんどお前の願望じゃねぇか……それっぽい理由つけてただサボりたいだけだろ?」
クドリャフカの真っ当なる意見をルイは無視することにした。
「気分転換をしましょう」
「ぅえええ?」
仕事をサボる。それについて露骨に嫌がっているのはシズクであった。
「だ、ダメですよ……陛下」
シズクの内部に存在する世界観、あるいは意識と呼べる領分、そこでは一応ルイが絶対的な支配権を有している。……ということになっているはず。
現実がその妄想に全く則していないとしても、シズクはその前提を半ば固執するように大切に扱っていた。
家庭が存在していて、そこにいろんな意味を考慮した強さのある夫がいて、あらゆる観念に通ずる美しさのある妻がいる、そして二人は子供を心から愛している。
そのイメージがシズクのなかで一個の心象風景となっている。
不可侵の領域、夢の国のようなご都合の世界観。
それらをシズクはルイに一方的に押し付けている。
何故ならその世界観は間違いなく過去に彼が手にするべき至宝だったからだ。
だが宝の権利は失われてしまっている。
欠落を埋めるような勢いで、または誤魔化し取り繕うように、シズクは原稿用紙の上にフィクションの人妻を描き続けている。
基本的に渇望を基軸にした創作意欲である。
そうであるがゆえに。
「今はちょっと……ようやく筆が乗ってきた、と言いますか……」
基本的にスランプと言うものを知らない。根底として理解できないし、そもそも必要ですらないのだ。
精神と肉体がある程度健康であればこそ、愛欲は継続されてしまいものなのである。
「筆が乗るって言いますか、あなたが」
モネが目をしょぼしょぼとさせている。
「いかなる修羅場でもタップダンスをしながら「雨に唄えば」をキメれるくせに」
漫画家としてはこの上なく頼れるが、いかんせん人間生命体として生きていくにはリスクが高すぎるスキルである。
モネとしても常々、シズクのメンタリティが抱える問題について憂いを抱いているようだった。
「根を詰めすぎると知らん内に回路が焼き切れて手遅れ、ってことになりかねんからね」
漫画制作にいかなる回路が必要とされるのだろうか、具体的なことはモネにも分からない。
だが、あからさまに疲れきっているモネの姿こそが目に見えない回路の証明に見事にふさわしいと言えた。
「んるる……」
シズクはまだ少し悩んでいる。
「そう言えば」
そこへアンジェラが巧みな追い討ちをかけていた。
「ピコリーノの姉さんが新しいフレーバーが欲しくて、シズク姉さんにちょっと相談したいとか、何とか、そないな感じの事ぼやいとりましたよ?」
「なんと」
情けは人のためならず、が皮膚を纏って生きているような彼女である。
それ以上机に齧りつくのはシズクにとって至難の技であった。
と言うわけで。
「いきなりだね!」
バンビノ・ピコリーノなる女性にとってはもれなくいきなりの訪問でしかなかった。
「いきなりすぎて何のもてなしも出来ないね! とりあえずお茶うけどうぞっ」
コトリ、と軽やかな音色を奏でて机の上に切り分けられたシフォンケーキが配膳されている。
卵黄の黄色が鮮やかなケーキからは仄かにオレンジの香りがする。
スタンダードに整えられた紅茶ととてもよく合いそうだった。
「ものすごくもてなされているぅ~」
モネは香り豊かな紅茶で喉を潤しつつ、申し訳なさで胸が一杯になっていた。
「さすがはこの因果交流回路でイタ飯屋を切り盛りする女主人と言ったところかね」
「なんだかハイカラじゃないなあ、その言い回し」
ピコリーノは客人たちに全て適切なもてなしを配膳し終え、自身もまた茶席について一服ついている。
「わちはこの戦後の傷冷めやらぬ混沌と夕さりの時代に、かつてのニンゲン様方が構築されたと言う華麗なる食文化を再びこの世に甦らそうと日々精進しているわけであって」
なんでも魔界において上記の内容を心情とする団体があるらしい。
「つまりは勇猛果敢な料理人の集いのようなものですね」
シズクの例え話にピコリーノはうんうんと頷いている。
「魔法使いにとってのギルドみたいなもんですよ」
さて、と。
ピコリーノは早速来訪した魔法使いたちに仕事を依頼している。
「といっても、基本的には採集クエストみたいなものですけれどね」
「採集?」
クドリャフカが小さく首をかしげている。
柴犬のような肉体に囚われているお姿は、可哀想なほどに可愛らしいものであった。
「ご存じなかろうか」
ピコリーノは紅茶をくびっと飲み下しつつ、潤った喉で滑らかに情報を彼に伝達している。
「彼女らの本業は魔法使いでもある」
「そこは、……解釈に委ねられますが……」
シズクがしどろもどろになっている。
「職業が考察自由って、なかなか意味分からん状態やけどね」
モネは自嘲するように軽く笑みをこぼしている。
「未熟な身空、今のところ仕事掛け持ちしつつ親の遺産で何とか食いつないでいるって感じやね」
これだけ聞くとかつての科学世界に多数存在していたすねかじり程度の問題なのだろう。
だが、実際のところはもっとワイルドなようだ。
「人工バリバリに減って資源だけ余りまくっているから、最悪サバイバルで食いつなぐことも出来るけれど」
実際魔法使いのなかでも異物を狩りながら生計を立てているものもそれなりにいるらしい。
「「モンスターハンター」みてぇだな」
科学世界の既存作品になぞらえるクドリャフカにモネがこくんと頷いて見せている。
「この辺りは、あそこまで肉肉しい獲物はなかなか捕れんけどね」
そう言えば、とクドリャフカは疑問を抱いていた。
「水曜日って、何なんだ?」
所変わり。
トゥクトゥクのような魔法道具で魔法使いたちは移動していた。
「まだ目的地までかかるかね? お嬢」
アンジェラはモネの事をお嬢と呼んでいる。
呼び名についてはモネも既に慣れきってしまっているらしく、シンプルにアンジェラからの問いに答えるのみであった。
「ちょっと待ってね」
そう言いながら自らの顔にふれている。
「……」
モネの指先をクドリャフカはじっと観察する。




