雑貨屋トットテルリ その2
「えーっと……?」
男子高校性、十八才程度の彼は当然のごとく魔法使いたちに対して戸惑いをみせていた。
霊長類のそれ、主に日本猿を基軸とした怪異を元にしているのだろうか、臀部から尻尾が伸びている。
指の1本のようにごくごく自然な感覚にて存在している尻尾は、ズボンに空けられた空白からほどよく露出している。
服にSやらMなどのサイズが定められているように、魔物の種類によって衣服のパターンも数多く存在している。
と、モネが余所事のように考え事をしている。
と言うのも、仕事が予想を遥かに越える速度で終了しつつあるからであった。
「こんな手紙、もらったかどうか冴えも覚えていないんだって」
緩やかに爽やかさのある男子高校性、フカジマ・キリ氏はやはり困惑した様子で彼女たちとやり取りを交わすのみであった。
「だって中学の二年生とか、もう三年以上は前の事で正直記憶もあやふやなんだよな」
「なるほど」
理解しにくい話でもない、あり得ない事態でもない。とモネはそれなりに納得している。
不安そうにしているのはシズクとカンパネラの二人のみと言えた。
「うええぇ~? マジ? もしかしてアタシ徒労させちゃった?」
予想外に事が解決しようとしている。
「んるる……」
依然として釈然としない様子のシズクが、改めてカンパネラに仕事無い用の詳細を確認しようとする。
「ぼくたちは、カンパネラさんに同行するという条件だけを今のところ開示されているのですが」
暗にそれ以上の情報をもっと寄越せ、という催促の気配であった。
情報の不足についてはカンパネラも多少なりとも申し訳なさを抱いていたらしい。
「いや、ね……」
カンパネラはかなり重たそうな口ぶりで本来の目的を話し始めている。
「事の結論を求めるためには、まず、……その……」
言いよどむ。
リップヴァン・カンパネラは言葉に迷っている。
迷える子羊を導くかのように、微かな光が彼女の元に訪れていた。
「貴女は、罪を犯したのではなかろうか?」
宗教的儀式を想起させる曖昧で普遍的な問いかけだった。
胡散臭いと言えばそれは確かに正解である。
だが同時に全ての魂が含有する罪の重さに問いかける、ささやかなきっかけにもなり得る。
その程度の質問だった。
要するにただ短絡的に範囲が広すぎる攻撃のようなものでしかない。
そしてルイが言いはなったそれは、運良くカンパネラの意識に届いていたらしい。
「なんで……それを?」
今日という日、お客人がもっとも魔王の力を恐れた瞬間であった。
さて。
「本当に覚えていないな……」
キリは手紙の内容をしっかりと確認している。
かれこれ六回以上は読みこみを行い、そろそろ暗記して暗唱さえ可能になりそうな頃合いになりつつある。
「それだけはやめて……マジで……」
平然としているキリに対してカンパネラはひどく憔悴しきっている様子であった。
疲れはてている。瞬間に体力を燃やし尽くされ、あまつさえ現状の場面に延々と苦しめられている。
そこまでの業苦を受けながらも、しかしてカンパネラの様子にはどこか納得の気配が見てとれた。
モネを始めとして他人の感情の変容に敏感な魔法使いたちが、エスパーほどとは言えないにしても彼女の動揺をうっすらと感じ取っている。
「あの……」
シズクが意を決したように、この不可解な感情の双極の一端を掴むように質問を投下している。
「お二人はどの様なご関係なのでしょうか?」
シズクの質問に先に反応を示したのはキリ青年の方であった。
「ただの中等学校、つまり中学の同級生だよ。たぶん……」
出身中学は同じ、そして年齢も同じ十八才。
となれば確定的事実として、ただ同級生であった現実が過去に存在していた。
それだけの事だった。
しかし。
「…………」
カンパネラは黙っていた。
実際問題それは決して長さのある沈黙では無かった。
キリが喋っているので、それを聞いていると言う体裁である。
実際のところもカンパネラにして見れば、己が沈黙の内に深い逃避行為を働いているということに気づいていないようである。
寝ている人間が眠りを自覚できないように、ただ肉体のどこかが情報として彼女の痛みを蓄積させている。
透明な痛み、そこにシズクはひととき視線を釘付けにしている。
と、そこへ。
びいい、びいいい。
サイレンが鳴った。
「うわ?!」
キリが突然の警報にぎょっとしている。
「何事?!」
「これはいけない」
モネが途端に臨戦態勢に入っている。
「どうやらこの付近に危険性の高い神様が現れたらしいで」
「そ、そうなのか……?」
淡々と冷静に対処しようとしているモネに、キリは疑いと訝りの視線を向けてきている。
至極真っ当な反応といえるのだろう。
何せ彼らは一応出会ったばかり、初対面なのである。
魔法使い側、例えばモネなどは相手側の情報をそれなりにカンパネラが提供されていたりする。
しかしキリはただなにも知らないだけだった。
三年ぶりに決して親しいとは言えない元クラスメイトからいきなり簡易メールを受け取ったのである。
いきなり会いたいと言われ、戸惑うも特に断る理由も見つけられないまま、昨今は友人も忙しくしているために彼自身暇を持て余している。
そう、つまりは彼は暇だったのだ。
だからこそ、このような危険地帯にも出掛けられた。
とはいえ、さすがにキリ自身もよもや本当に災害に巻き込まれるとは思ってもみなかったらしい。
「に、ににに……っ 逃げなきゃ……っ!!」
まずもって根本的な生存本能として己の生命を守るための思考を巡らせている。
意識が継続しない限りは、他人を心配するなり蹴落とすなり、それら全ての行為や意向が無意味になるだけである。
「何してんだよ」
しかしながら、どうにもこのフカジマ・キリという名前の魔物青年は中々に敏い感覚を有していたらしい。
避難勧告にしたがい脱兎のごとく逃げていく魔物たち。
その群れのなかで一粒、二粒、三つ、違和感を放つ小さな気配がある。
「お前らは、逃げないのか?」
逃げ足を止めてまでキリは魔法使いの少女たちに質問をせずにはいられないでいる。
もっともキリ自身はまだ少女らが魔法使いであるなどと夢にも思わなかったようである。
「んるる」
もしもなにかしらの漫画的デフォルメが空間に機能していたとしたらば、シズクの喉からはト音記号のように軽やかな文字が膨れ上がったに違いない。
あるいはその目はエメラルドの栄光のごとき輝きを放ち、同時に血飛沫のごとき悍ましさを孕んでいたのだろう。
とかく、攻撃性を孕んだまま、シズクは建物の外側に躍り出ていた。
風のような速度だった。
水蒸気を含む季節の風、やがては嵐を呼び起こす湿り気のように速やかに、軽やかに窓のそとへと近づいて。
キュ、と湯葉でも切るような所作だけでカフェの分厚い窓ガラスを切り裂いてしまっていた。
「うわっ」
早くもキリが軽く恐怖を覚えている。
まだ実際に命の危険が及んでいないことも関係してか、キリはただの脱出方法にすら純粋に驚愕してしまっていた。
「すっげー! 窓ガラスを紙みたいに……!」
「感動しているとこば悪いけっど!」
カンパネラがとっさにキリの手を強く握りしめている。
彼女の方は、どうやらこの状況にかなり動揺と混乱を来しているらしかった。
手のひらに大量の汗がにじむ感覚を肌に、カンパネラはとにかく魔術師として罪無き一般市民を守ることを優先していた。
「こっちに避難用の結界が設置されているはずだから、そこまで案内するから!」
「あ、ああ……!」
ここは迷宮。
男女の再開の気まずい場すらも問答無用で戦場に書き換えてしまう、そんな場所なのであった。
さて、迷い込んだのは路地裏だった。
「はあ、……ん、はぁっ」
カンパネラはキリの手を強く握りしめたままでゼエゼエと喘いでいる。
先程までは喘鳴とも言えるほどに彼女はひどく消耗していたのだ。
「驚いたなぁ」
キリの方も特に彼女の手を振り払うでもなく、当たり前の反応として身に降りかかろうとする危険に怯えている。
「つい勢いに任せてこんなところまで逃げてきちゃたったけど、ダイジョブなのか?」
大丈夫? の部分には彼なりに範囲を広げた意味合いが込められていた。
第一に自分のことについては当然であり、そして魔法使い側にしても彼はただ巻き込まれた一般の方なのであった。
「遺憾の意を示したいところ、しかして」
シズクはキリに向けて謝罪しながら周囲への警戒を継続させている。
緊張と高ぶりのあまりにその口調はどこかの誰かに憎しみを吐き出しているかのような気配に聞こえてしまう。
「まずもって、あなた様の身の安全を確保することを最優先とさせていただきます」
「えっと、要するに守ってくれるってことだろ?」
自身よりも一回りといえるほどには小さい少女、そんな存在に庇護されることに即座に順応できるほど異常でもなかった。
「迷宮の専門家に守ってもらえるのは嬉しいが、しかし君らに必要異常の仕事? 的な何かを背負わせるって言うのは、その~年上としての矜持ってものが」
柔い印象とは異なりキリは割合古風な思考を有しているらしい。
戦争の影響が大きい土地で育ったのだろうか? 人間の文明は女を庇護する文化がかなり長く続いたという。
シズクは素直に心遣いを嬉しく思った。
思えばこそ、率直に例を伝えたいとも思う。
「……えっと……」
しかし何故だか言葉が詰まってしまった。
些細な喉詰まりのような不快感に似ている。
肉体に直接的に訴えかけてくる否定の感触は、僅かながらにも致死率の高い毒性のようにシズクの意識を蝕んだ。
「手紙の内容についてを覚えていますか?」
「へ?」
唐突な質問である、と他でもない質問者本人であるシズクがまずもってそう気づかされていた。
キリが困惑しきっている先、シズクは眼鏡の奥の両方の目蓋をゆっくりと開閉している。
眼球の保護というよりかは視覚という行為、器官を意図的に冷却しているかのような動作だった。
しかも正しい冷却とも言えない、一切熱暴走を起こしていないコンピューターを延々とひやしている。そんな生真面目さを感じる急速方法だった。
「何かを考えているのか?」
やはり彼はかなり察しがよいらしい。
目の前の魔法使いが、何やらまじないじみた行動をしたことに、うっすらと感づいているようだった。
「ぼくは……」
シズクは、彼のあまりにもまっすぐな疑問点に一種の感動を覚えていた。
音のしない爆発。
花火のようにきらめき、太陽の如く鮮烈。
しかし絶対に音はしない。何故ならそれはただの感情の動きでしかないからだ。
「んるる」
美しい。とシズクは思う。
即物的な美しさとは異なる、シズクのなかに形成された情報に基づいたひどく個人的な美的感覚であった。
何を美しいと思ったか?
シズクはその事について考えていた。
考えている場合ではないにしても、それでも思考の甘美にうまく抗えないでいる。
「相変わらず察しが良いのね」
魔法使いと一般人。
彼らからさほど離れていない距離において、魔術師が彼らのことを侮蔑していた。
「そして、どうしようもなく鈍感だわ」
リップヴァン・カンパネラは何やらめんどくさい彼女のような素振りをつくって見せている。
「あんなことがあったのに、忘れたんだ」
「え?」
痴話喧嘩のような展開にキリはドギマギしてしまう。
あいてはサキュバスで、しかもかなりの美人なのである。
キリとしてはその青竹色の艶やかな髪の毛から目がそらせないほどには、彼女はとても魅力的に映っているようだった。
「いやはや……こういうのって先に謝るべきなんだろうな」
照れるがあまり、人間としての本能が本来の危険性を覆い隠してしまっている。
「すまない、君みたいな美女に、もしかしたら過去の俺は何かとんでもないクソガキムーブメントを……」
黒歴史についてを若干ユーモラスに言い表す。
そんな彼の様子を見て。
「あはは」
カンパネラは少し笑った。
笑って、キリの手を離している。
そして。
「それはよかった」
誰に向けての言葉なのか、いまいちよく分からないままに、彼女の肉体が謎の触手に喰らい尽くされようとしていた。
突然の出来事、としか思えなかった。
「うわああ!?」
今しがた触れあっていたばかりの女の手が、何の前触れもなく化け物のそれに変わり果てていた。
キリは悲鳴を上げる。危険信号のそれらとは種類が異なる、防衛本能のような叫びであった。
魂から氾濫した危険信号を緊急的に外側に排出している。
そんな悲鳴を背後に、シズクの体は既にキリとカンパネラの間に立ちふさがっていた。
神か、あるいはそれらに連なる異常事態か?
何にせよ、日常を脅かす危険であることには変わり無いだろうと、シズクはすぐに思い込むことにしていた。
魔法使いとしての経験、あるいは与えられた才能と知識、それらを統合したデータから計算された道筋だった。
言うなればひどく限定された仮定と推察でもあった。
「誰かが何かを殺す」という行為について、シズクは異常なまでに視力がよかった。
殺意についての目利きが恐ろしいほどに鋭かった。
だからこそ、カンパネラが一瞬キリにたいして殺意を抱いたことにすぐに気づくことができた。
気づいてしまった。と考えたくなってしまう。
今の今までさんざん神様の持つ強力な魂の御力に殺されそうになったはず。
それこそ魔法使いになると決めた日、迷宮に根を張り知識を集め続けると誓った時。
愛する魔女をただ傷つけて、傷つけて、傷つけて。
傷つけて、最後には。
ああ。
「ああああああああ」
殺すという事柄についての妄想。
それは何もシズクや、あるいはシズクのように少し変わったタイプの魔法使いだけに許された特権というわけでは、決してない。
断じて無いのだ。
シズクはもちろんその事をしっているし、それどころか何も分からないキリですら、彼女が自分に殺意を抱いていることに気づいてしまっている。
「……っ!!」
キリの呼吸が詰まる。
致し方の無いことだった。
例え相手がエリート魔術師だろうが、あるいは最低最悪の大魔王であろうが、たいして意味は無かったのだろう。
さして意味は変わらなかったに違いない。
理性的な立場、正解も不正解もたいした意味を為さず、そもそも必要とすらしない。
ただ相手を殺したい、そう思った瞬間に殺意は完成している。
それ以上の形にはならず、よしんば別の感情を抱いたとすれば、そこに含まれるエネルギーはその感情においてのみ使用される。
憎しみは憎しみのために、憎悪や嫌悪に変わり、やがて疲れはてて慈愛すらも抱くかもしれない。
しかし殺意は完結している。
殺したい、殺す、殺した。三段階の行為、それだけの目的でしかない。
そして本来であれば、カンパネラの殺意は簡単に完結するはずだった。
何故なら? 彼女は神に取り憑かれている。
遺物と称されるまでに極まった魔余力を持つ存在に取り憑かれていたからだった。
「あああああ」
ジョズ・ストーンがカンパネラの体に絡み付いていた。
神たる存在、遺物であればこそ彼は本能的に戦争行為を望んでいる。
虐殺を求めてさ迷う、そしてほどよい肉体を使って獲物を捕らえようとしていたのだ。
襲いかかろうとしていた。
獲物は間違いなくキリ氏のようである。
憑かれたカンパネラは、しかしそれでも魔術師としてのプライドを守ろうとしていた。
「本当は、もっと丁寧に、謎解きとか伏線とか、張るべきなんだろうけれど」
何の話なのか。
キリには全く分からなかった。
が、言うべき事柄は何となくすんなりと思い浮かんできていたようだった。
「冗談じゃない」
キリはふと、少し昔のことを思い出したようだった。
「俺はお前みたいに要領も、頭も意地の悪さも、なんにも優れちゃいないんだよ」
それだけ言うと、彼はとても苦しそうに顔を歪めていた。
「キリさん」
毒の塊を飲み込んだような表情の彼を心配して、シズクがその表情を覗き込む。
目を見て、口の歪みが丁寧に上へと向けられている。
それらの変化が、シズクにはとても嬉しくて仕方がなかった。
大歓喜の熱病を誤魔化して、シズクは己がすべき処理作業を頭のなかに計画する。
「せめて理由くらいは、話せるのではないのでしょうか?」
「ああ、それくらいはもう、話せるよ。だいぶ思い出してきた」
キリはシズクに返事をする。
何が彼の記憶を呼び覚ましたのか、どのような事柄について彼は記憶を掘り起こしたのだろうか。
「申し訳ございません」
職業病とでも言うべきか、シズクはナチュラルな動作で謝罪をしていた。
「あらゆる魔法行為において、秘密はとても美味しいエッセンス足り得るのです」
「馬鹿馬鹿しいほどに正直だな」
キリはシズクを罵倒していた。
言葉はしっかりと魔法使いに向けられているし、意識の主体はしっかりと固定されている。
しかしそれでも本質的な部分、例えば僅かな視線のブレは常に補食されかけているカンパネラに執着していた。
しつこく視線を向けている。
ゆっくりとタコの化け物に食べられている。
彼女の様子を見て、キリは笑いを堪えるのに必死のようだった。
だからこそ呼吸すらもままならないでいる。
下手をしたらカンパネラが食い殺されるよりも先にキリが呼吸困難で生命を断絶させるかもしれない、それほどの勢いであった。
「どちらでも構わないのだろう」
どこからともなく……なんてことは全く無く、魔王ルイの声はシズクの持つナイフの内部から聞こえてきた。
「考えたまえ、魔法使い殿」
魔王陛下は魔法使いにお願い事をしていた。
敵を滅ぼすため、生存戦争に勝つための戦略についてを考えろと、そうお願いしている。
魔法使いは魔王の願いを聞き届けた。
「ええ、ええ、考えてますとも」
そしてシズクは腰に巻き付けてあるホルスターからナイフを取り出した。
変わった質感のナイフではあるが、しかし切れ味については、それはそれは期待できそうであった。
キリも段々と場面の具合が理解できていた。
魔法使いともなれば、やはり異形の神々を討ち滅ぼすために存在している職業である。
キリは期待した。魔法使いが敵を殺すためにナイフを振りかざすのを期待した。
だが。
「え?」
ナイフはいたってシンプルな動きだけを実行していた。
異形を切ることをしない。
神に殺意を向けること無く、その切っ先はキリの喉元にまっすぐ向けられていた。
実に単純なバイオレンスであった。
油断している一般人の背後を取ることなら、あるいは魔法使いでなくとも気合いをいれたただの女子高生ならば実現できる範疇だったかもしれない。
要するにシズクはキリの背後を取り、そしてよく日に焼けた首もとの皮膚にナイフをそっと、密着させていたのである。
そしてシズクは彼を脅迫した。
「彼女を助けなさい」
いたってシンプルであり、それ故にひどく残酷な命令文だった。
「何を……?」
キリはただひたすらに困惑し、動揺していて、何より混乱をしていた。
意味が分からない。そうとしか考えられなかった。
目の前に女を今か今かと食らいつくそうとしている異形の神が目の前にいるというのに。
嗚呼、ダメだ、気が狂っているとしか思えない。
たかが少女一人。
キリは苛立ちを込めてシズクの体を振り払おうとした。
「気は確かか?」
キリは魔法使いに向けてそう叫んでいる。
シズクは、魔法使いとして回答を返す。
「ええ、ぼくはいたって冷静ですよ」
「だったら……! 何で……?」
何故自分を殺そうとするのか。
キリは苛立つ。喉元の皮膚を鋭く圧迫しているナイフのつめたさがひどく不快だった。
「はやく、こんなバカみたいなナイフをさっさと俺から離しやがれ」
「心外だね、傷つくな」
声が聞こえる。
あからさまにシズクのそれではない、男性の低い声だった。
ルイの声であるが、しかしその事実を、情報にたどり着くための要素を持ち合わせないキリにしてみれば、魔法などよりもよっぽど怪奇な現象でしかなかった。
今のは?
キリの動揺を置き去りにしている。
そしてそのまま、魔法使いたちは彼を脅し続けた。
「彼女を助けなさい」
シズクはさらにナイフを皮膚に食い込ませている。
つぷ、と血液が一滴、溢れた。
「ひっ……!」
痛みを覚えるよりも先に命の危険を感じていた。
キリはすぐに言うことを聞いた。
「分かったよ!! 助けりゃ良いんだろうがよ、クソが!!!」
使いなれていない罵倒用語の数々に舌がもつれている。
可能な限りの罵倒を口々に、言葉を紡ぐほどに不快感が募る。
ニンニク料理フルコースをビールと共に嗜んだ翌日早朝の口臭、それをさらに3日分ほど凝縮したような不快感。
感覚を噛み潰して、ついにキリはカンパネラの手を握りしめていた。
握りしめ、そしてそのまま首を絞めている。
否、本当に絞めるつもりはなく、それはあくまでもジェスチャーであった。
「…………」
助かったカンパネラ。
彼女について、キリはまだ言葉を介したコミュニケーションを困難としている。
彼にはあまりにも難しすぎた。
言葉が使えないのなら、体で示すしかない。
思えば単純、そしてかつてのキリにとってはそれなりに懐かしい戦略でもあった。
つまりは、「お前なんか死ねばいいのに」と思い、そのために首を絞める振りをしている。
ただそれだけのことだった。




