浮気話噂話
目が覚めるとそこは地方都市の片隅にある寂れたラブホテルの天井が見えていた。
「なんて書き出しで始まると、いかにもタコにもアダルティーで官能的、ベチョベチョヌルヌルな世界観が広がりそうな気配があるが」
ラブホテルのダブルベッドの上に横たわっているのは、ラフィー・エイムという名前の魔物の男性であった。
「実際のところはセックスだのサックスだのソックスだのとは比べ物に
ならねぇくれぇのどぎついバトルを繰り広げたあとの、死ぬ間際の走馬灯みたいな風景ってことになるんかね?」
早速死ぬ気満々になっている。
そんな彼のことを茶化す美少女の声。
「馬鹿なこと言っとらんと、本人にやる気が無ねぇとこっちも治せるもんが治せんのじゃって」
軍港が似合いそうなどくどくの訛りを含んだ口調。
エイムがダブルベッドの上にて気だるげに視線だけを左側に動かす。
ベッドの外側、傍らに少女がひとり佇んでいる。
決して幽霊という雰囲気のそれでは無い。
いや、見てくれとしてはある種浮世離れした美しさを有してはいる。
桜の花びらのように薄く柔らかな桃色を放つ髪の毛は毛先が緩くふわふわとウェーブしている。
髪の毛を動きやすいように、そしてわざとらしいまでに可愛らしくゆるふわのツインテールにまとめている。
活発そうな髪型とは裏腹に、着用している服はゴシック調に薄暗い。
伊達に長くラブホ経営をしていないエイム氏にしてみれば、彼女のファッションはいわゆる地雷系? めヘラと呼称される区分に入れるほどの過剰な可愛らしさを想起させる。
いや、別段それで困難に陥いるような問題点があると思えない。
髪型も服も両方とも彼女にとてもよく似合っている。
だとすれば、問題があるとすれば。
「ジェラルシ・アンジェラ君よ」
エイムはあえて少女のフルネームを口にしている。
そこはかとない緊張感。
緊迫してしまう、喉の強ばりを隠すべきか否か、判別をつけている暇も惜しむほどだった。
エイムはアンジェラに質問をする。
「なあ、「銀の龍」のお嬢さんよ。その手に持った金槌で、一体全体俺をどうしようって言うつもりなんだい?」
謎の固有名詞はともあれ、エイムの言う通りアンジェラの手には謎の金槌が握りしめられている。
一見するか、あるいは夜目遠目笠の内ならば魔法の杖にも見えなくはない。
ワインレッドの持ち手にシルバーの基軸。
メイスと呼ばれる、古より治療行為をおもとした魔道に適した道具。
それによく似ている。
しかし似ているだけ。類似性はあくまでも類似性でしかなく、アンジェラの手の中に握りしめられているそれはどこまでも、そしてどうしようもないまでに金槌であった。
とても癒しの技法に使用されるような道具には見えない。
槌の部分は見事な銀色。
持ち主である彼女が日頃からとても丁寧に細やかに手入れを施しているのだろう、産まれたての朝日に照らされる雪のように冴え渡った輝きを放っている。
釘抜きの部分に至ってはもはや攻撃力増し増しで、サーベルタイガーの牙の如し鋭さの主張を行っている。
アンジェラが魔法の金槌を構える。
お正月に餅つきをキメるかのように、アンジェラは金槌をエイム氏目掛けて振りかざす。
「ああ、俺はここで殺されるのだろうか……」
復讐を、とりあえず……とりあえず? 果たしきった。
本懐はほとんど使い果たしたはずだった。
満足感の中で死ねるはずだった。
「思い上がらんといてや」
考えている時点で既に思い悩み、迷い澱んでいることを他でもないエイム本人が自覚していた。
故に、また別の方角から聞こえてきた女の声がエイムにとっては酷く恐ろしいものに思えて仕方がなかった。
幻聴だったのだろうか?
思い込みにすがりつきたくなる。
「お加減いかがかね?」
アンジェラとは別の声。
エイムはラブホのダブルベッドの上に寝っ転がったまま、まずもって視線だけを次は右側にスライド移動させる。
そこにはまたしても別タイプの美少女がいた。
アンジェラよりも一回り、いや二回りかそれ以上……乳が大きい。
と、生命の危機をさまよっているがゆえの生臭い生存本能を奥歯で噛み潰しつつ、エイムはぐったりと彼女と、彼女の隣いるさらに別の美少女の名前を呼ぶ。
「モネくん、……と、シズクくん」
モニカ・モネ。そしてシヅクイ・シズク。
アンジェラと同じく、この地方都市「灰の笛」に生息する魔物であり魔法使いである。
二人のうちのどちらに叱責されたか、エイムは直ぐに理解することが出来てしまえた。
「厳しいな、モネくんは」
エイムに弱音を吐き出されて、モネは側頭部から生えている白と黒のふわふわの牛耳をぴくり、と思案げに動かしている。
エイムは相手の関心がこちらにちゃんと向いていることをしっかりと確認したあと、独り言のような愚痴をさらに継続させている。
「こちらとしてはもう、生きている意味のほとんどを使い果たしたつもりなんだが?」
愚痴と言えばちゃんとした愚痴のつもり。
とは言うものの、きちんと叫び喚きくる覚悟と体力さえ残っていれば、それこそのこの寂れたラブホテルの薄い壁一枚程度なら簡単に破壊できる程度の力を持って己の主張を吐露できるというのに。
「って言うか、壁、壊れたまんまじゃねえか」
尋常ならざる器物破損の光景を思い出す。
そして肌にびゅうびゅうと感じる外界の寒気に、エイムは反射的にホテル管理者としての活動を起こそうとしてしまう。
魔道が社会機構を維持する技術の主観となっている世界、内側と外側を隔てる「何かしら」が破壊されることは、それなりに重めの危険性を帯びている。
「結界についてはご安心ください」
内側外側の問題についてを、シズクという名の魔法使いがいかにも魔法使い然とした言葉遣いにて事情をエイムに説明しようとしている。
「ちゃんと塞いでおきましたから」
塞ぐとはどういうことなのだろう?
端的すぎる説明にエイムは余計に訳が分からなくなってしまう。
そんな玩具みたいな感覚で塞げるほどのスケールの穴ぼこでは無かったような気がするが?
それこそ、神様約一名分は簡単に通り抜けられそうなほどの大きさがあったはず。
不可解さはそのまま不安に直結する。
焦燥感にも似たそれらの感情に突き動かされて、堪らずエイムはベッドから身を起こす。
そして。
「うわぁ……」
壁一面を覆う氷の壁にドン引きする羽目になった。
なるほど確かに、部屋の温度が真冬のごとき寒さに変容するはずである。
穴ぼこの隙間という隙間に意識を帯びた水が滑り込み、そしてそのままカチコチに凍りついているのである。
とても自然現象のそれとは思えない。
科学的根拠から逸脱した現象は、会話の前後関係からしてシズクの作った魔法による現象のそれ以外に考えられそうになかった。
魔法の氷は、いやらしいまでに美しい拵えとなっていた。
ただの透明な水の板というわけでは決してなく、まるで旧世界における昭和時代の家屋を彩った模様入りすりガラスのような、親しみのある芸術性がある。
「なんと言ってもラブのためのホテルですからね」
シズクは得意げに「んるる」と猫のように喉の奥を鳴らして、割合膨らみの多い胸の部分をふふんと自信ありげに反らしている。
「プライバシーは何よりも尊重されるべきであると、隠匿性に特化した表面加工を施しました」
「そりゃあ、……どうもご丁寧に」
こんな事態でなければ、ましてや外が夏の世界であれば、冬と春の合間の世界でなければ、喜ばしい魔法として受け入れられたのだろう。
いや、それ以前にエイムは自覚しなければならない時効に追われていた。
「俺は死にたかったんだが」
エイムの望みにモネが受け答えをする。
「死なせるものか」
平常時であれば何とも雄々しく男らしく、男を通り越してもはや漢気の眩しさに目を潰されそうなりそうである。
しかしながら、モネにしてみれば何もエイム自身の生命活動を最重要項目として遵守したい訳でもないようだった。
「実を言いますと、あんさんの依頼よりも前に先約がおるんよ」
「先約?」
はて、誰のことか?
軍人として戦場を、貴重な備品を抱え護り抜いて駆け抜けた元軍人の彼でさえ、魔力の過剰消費という異常事態に思考能力を大幅に奪われてしまっている。
サプライズパーティーに驚き状況が理解出来ていない幼子のような、そんな表情を、モネは「透明人間」の物語を受け継ぐ彼に勝手に想像をした。
妄想もさておき、モネは身につけている作業服の胸ポケットから一枚の紙を取り出し、エイムに手渡している。
その一枚の紙は、手紙のようなものだった。
かなり上質な紙質である。
ほのかにざらつく表面は旧世界に多く流通した印刷技術では到底真似出来ない複雑さとある種の偏屈さを想起させる。
少し長めの長方形、手紙にはこう記されている。
「ラフィー・フィルディ……」
「ラフィー」という苗字が偶然一致している。
などと、そんな楽観的な気持ちには到底なれそうになかった。
「フィルちゃん」
ラフィー・エイムは思わず呟いていた。
戦時下にマイホームに置いていった恋人のことを思い出していた。
「貴方はぼくたちに嘘をつきましたね」
シズクがエイムの方に少しだけ姿勢をかたむけながら、事実確認をしようとする。
長く艶やかな黒髪を二本の三つ編みにまとめている、黒猫の後頭部のような色の毛先が妖しく揺れる。
「既婚者とは言いましたが、実際のところは法的な婚姻関係を結んだ訳では無い」
ご名答であった。
いや、これはもはや問答でもなんでもない、ただの事情聴取である。
「お前ら」
口調が粗野になる。
エイムは図らずして手前の心の中身が青臭い若者時代の恋心を思い出しつつあるのを、どこか喜劇的な程に実感していた。
「アイツの何なんだ?」
ヤンキー漫画の雑魚い彼女持ちみたいなセリフをごくごく自然に吐いてしまった。
しかしてこれ以外の質問文も、今のエイムには考えられそうになかった。
彼の質問にモネが簡略的に答える。
「手紙の内容としては仕事の依頼人やね。行方不明者の捜索という題目にて、「ラフィー・エイム」という男性を探して欲しい。とのこと」
なんとまあ、この魔法使いの小娘共ははなからエイムのことを探していたのだ。
エイムの方でも魔法使いを探していたことには変わりない。
が、よもや。
「こんな偶然……馬鹿じゃねえの?」
これではまるで、神様の巡り合わせみたいではないか。
「クソッタレが」
悪態を吐く。
そんな彼に、アンジェラは気怠げな様子で確認を取る。
「状況が纏まったところで、サクッと回復しますよ」
魔法の金槌、兼魔法の杖を構えて、アンジェラは呪文を歌う。
「赤いリンゴ空に落ちて、雲の彼方、柔らかな空、思いの丈をあなたに
甘い蜜を覚えた、赤い果実
蓄えるは知性、愛が実るまで
目で見て耳で聞いて鼻で嗅いで指で触れて
そして舌で味わう」
歌う、音が空気を振動させる。
透明であるはずの場所に意味が書き加えられる、魔法の発現である。
白熱電球の灯りのようなもの、丸く輝く温度がぽぽぽぽ、といくつか生まれた。
適温にした紅茶のような温度のそれらが、エイムの皮膚にまとわりつくように触れてくる。
エイムは反射的に警戒心を抱いて身を縮ませる。
しかし緊張はすぐに解かれてしまう。
温泉に一分間以上浸かった時のような感覚、それに似ている。
皮膚の表面を通過して、肉を解して神経の隅々に行き渡る心地よい熱。
発汗作用がある光の周囲を、秋風のような少し寂しげな涼やかさが繊細に吹き抜け、滲む汗を丁寧に拭ってくれる。
エイムの頭の中に露天風呂が思い起こされる。
まさに露天風呂、兎にも角にも有無を言わさぬほどに最高な露天風呂だった。
当然のごとく、また必然的な自然の摂理のごとくエイムの抱く最高が他人のそれと必ず全て合致することはありえない。
少し老けた、もとい大人びた思考を手に入れれば誰にだってすぐに想像できるであろう事項。
だからこそ、どうして? とエイムは魔法使いの魔法に対して疑問を抱かずにはいられないでいた。
どうして自分は今、ありえないほどに快適な感覚に浸れていられるのだろうか?
この想像はどこから湧いてくるのだろう?
振り払っても振り払っても、まるで死体にわく蝿の群れのようにまとわりついて、一時も離れてくれない。
ただ、一つだけ違和感があるとすれば、どうしてこんなにも紅葉が綺麗だということ。
どうして「秋」のイメージがこんなにも強烈で鮮烈なのか。
いっそ押し付けがましいとさえ思えてくる。
逆を言えば、それらのイメージのおかげで魔的な癒しに溺れないで済んでいた。




