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春雷記  作者:
京都編

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16-1 伏見 特使1

 落ち着かなくてそわそわする。

 パワハラを当たり前とする集団のただなかにいるのも、己を誰よりも憎悪しているであろう庶子兄と同じ建物内にいるのも。

 だが同時に、この男と正対していると不思議に気が抜けるのだ。

 この部屋以外のところでは、今間違いなく緊迫した状況下にあるだろうに、襖一つ隔てたこちら側にはそんなものは全くない。

 そこに居るだけで空気が緩むというのは特異な気質だ。

 人間的には明らかに長所だが、武士としてどうなんだ?

 彼を異質として排除したがる者は確かにいるだろう。だが同時に、倍の勢いで何としても支えようと奮闘する者も多そうだ。 


「まっ、待ってくれ」

 腕組みをして首を捻ってるのは左馬之助殿。

 その背後では松永青年がしきりに顎をさすっている。

「一手、いや二手戻してくれ」

「またですか」

 勝千代は言われるがままに飛車と角を引かせた。

 そして再びの長考。「うーうー」唸りながら頭をひねる男の顔をじっと見て、「身内」と言われたからではないが、やはり若干ほだされているのだと感じていた。

 困った顔をされれば何とかしてやりたくなってしまう。

 放っておけと理性は限りなくまっとうなアドバイスをしてくるのに、こうやって将棋盤を前に向かい合っているあたり、明らかに警戒心が緩んでいる。


 考えた末の一手に、その背後で松永がため息をついた。

 えっという顔で振り返った左馬之助殿を尻目に、「王手」と勝千代が駒を進める。

「あああああっ」

 がばっと腕を上げて頭を抱え、「いてぇ!」と悶絶するあたり、骨が折れているという程でなくてもそれなりの怪我人ではある。

 それが深刻に見えないところが、この男だ。

「もう一回!」

「あまり大声を出さないでください」

 勝千代は二駒引かせた段階まで戻した。

 いつまでやるんだろう……コレ。


 廊下を走る物音がしたのは、更に数回やり直しをさせられた後だ。

 松永は既に飽いたのか、部屋の隅で逢坂老と並んで腕組みをして目を閉じている。

 いい予感がしないその足音に、顔を顰めた。

「臥所のほうへ」

 客のはずなのに、どうしてこんなことを言わなければならないのだ。

 そう疑問を覚えながら左馬之助殿の方を見ると、耳が聞こえないはずはないのに、まだ駒を睨んで唸っていた。

 足音はものすごい勢いで近づいてきて、スパン! と襖を開けて駆け込んできたのは進藤だった。

 礼儀も何もない不躾な入室に、ビクリ、と反応したのは、勝千代を含め福島側の者たちだけだ。

 他は驚いた顔もしていないから、いつもの事なのかもしれない。

「無理にも押し入ってきそうです。相手は医者をつれてきています」

 勝千代が目配せすると、左馬之助殿の側付きたちがいそいそと近づいてきて、「ま、待て」と止めようとする主人を無視して将棋盤を運んで行ってしまった。

「さあ、寝床へ参りましょう。怪我人は怪我人らしく唸ってください」

「こんなところまで来ないだろう」

 長考に対する皮肉なのだが気づかなかった様子で、天然な返答を寄こした左馬之助殿の背中を押す。

「急いで」

「わ、わかった。わかったから押すな。痛い痛い痛い」

 刀傷もあるし、火傷もあるんだよな。

 平気そうな顔をしているが、やはり重めの怪我人なのだ。


「できるだけ臭いの強い塗り薬を顔に塗って、当て布を」

 控えていた医者にそう命じると、その男はさすがにきょろきょろと北条側の反応を伺ったが、当の本人が「うえぇ」と嫌そうな顔をしただけで、他の誰も文句を言わないので「かしこまりました」と薬箱に手を伸ばす。

 その間に勝千代は部屋を仕切る几帳を運ばせ、すだれも下ろした。

 今度は空っぽではない病室の完成だ。


「火鉢をもっと寄せて、水を沸かしましょう」

 ここに弥太郎がいれば、いつもの薬湯を作らせるのだが、さすがに他家の屋敷に忍びを連れ込むことはできない。

 将棋盤を置いていた近くの火鉢が、すだれの中に移されて、カチリと五徳の上に鉄瓶が置かれる音がした。


 ゆっくりと時間があったわけではない。

 だが大勢の足音が近づいてくるまでに、数秒程度、心構えをする間はあった。

「唸ってください」

 勝千代がそう囁くのと、「失礼いたす!」と本当に失礼な大声が掛けられたのはほぼ同時だった。

「御寝所に御座いますぞ!」

 遠山のとがめだてする声が聞こえる。

「まあまあ、折角名医をお連れしたのだから……」

「医者ならうちにもおります!」

 押しかけ客の声にも聞き覚えがあった。

 下京の宿に押しかけてきた、伊勢殿の家臣の何と言ったか……声の次に思い出したのは、ツルリと光るてっぺん。そうそう、確か名前は湯浅、湯浅だ。


「う、うー」

 大根役者が棒読みで唸り声らしきものを上げる。

 あまりにもわざとらしかったからかもしれない、すだれの向こう側の者たちが黙った。

「申し訳ございませぬ。すぐに下がらせます」

 遠山がきっちと膝をつき、勝千代ら福島勢を含むすだれの内側にむかって頭を下げた。

 あれだけのぶっ飛んだパワハラぶりを披露し、言い訳も利かぬ公開処刑を強行しようとした遠山だが、一見温和な中間管理職だ。見た目だけなら、扱いやすそうな中年男なのだ。

 どんなに止めても強引に押し込まれ、伊勢殿の特使に手を出すわけにもいかずやきもきしているのが伝わってくる。


 うちの脳筋どもより導火線は長そうだし、手綱もしっかりしたもののようだが、それを握っているのが目の前でわざとらしく「うんうん」唸っている左馬之助殿では、好きな時に自由に解き放たれる特殊武器にしか見えない。

 その刃がするりと鞘から抜けない事を願うが……

 

 すだれ越しに目が合った。合ってしまった。見えないはずなのに。

 嫌だぞ。嫌だって。

 もの凄く期待する目でこっちを見るな。

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[一言] 押すなよ?絶対押すなよ?って事ですか?
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