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春雷記  作者:
京都編

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15-4 伏見 北条本陣1

 約束したからといって、必ずしも見舞いに行かなければならないという事はない。

 左馬之助殿の体調を慮って、と言い訳すれば、少なくとも本人については甘味の差し入れひとつで勘弁してくれるだろう。

 とにもかくにも、特使団と鉢合わせしたくない。

 あちらが勝千代らの存在を知らぬはずはないが、藪をつつく必要もあるまい。

 事は既に万単位の兵が動く状況だ。百に満たない、しかも子供が率いる小勢など、些細な目障り程度のものだろう。

 北条軍がよほどの下手を打ち、伏見が壊滅状態になるのでない限り、わざわざ福島勢に難癖をつけようとはしないだろう。

 じっとしていれば、何もないはず。

 ……少なくとも、表立っては。


 春雷の夜の襲撃は、伊勢殿の手勢だという確認は取れている。

 それが伊勢殿の命令なのか、庶子兄によるものなのかはわからない。

 後者であれば、個人的な恨みの可能性もあるのだが、前者ならば、権中納言様の安全に今以上に気を配らなければならない。

 下京に侵入した土井侍従や田所らの安否が気になる。

 重傷を負われた皇子ともども、伊勢殿の手中に落ちたというようなことはないと思いたいが……


 勝千代は晴れ渡った春の河川敷の、柳の木の下で水面を見ていた。

 魚が泳いでいる。アユだろうか。ヤマメだろうか。

 塩を振って焼けば美味いんだよな。

 悠々と泳ぐその姿を目で追いながら、ぼんやりと現実逃避してみる。


 世の中はせわしなく動き、時は止まらない。血なまぐさく、残虐で、容赦ない現実だ。

 川の中の魚の動きだけを見ていると、令和の時代と何ら変わりはないのに……と、ひどく切ない気持ちになる。

 生き物は変わらない命を刻んでいる。

 人間だけが、罪を重ね業を刻んで生きている。


「若」

「……急に立ち眩みがしたとか言ったら駄目かな」

「もう目の前ですが」

 ため息がこぼれる。

「行きたくない」

 真後ろに立っている逢坂老には聞こえているだろうが、無言を返された。

 わかっている。引き返すのならもっと早くにするべきだった。ニコニコ顔の遠山が門前まで迎えに来てしまったので、今さら帰るとは言えない。

「……どうしてあんなに前のめりなんだ」

 大歓迎の様子で手を広げて出迎えられ、ぼそりとぼやく。

「聞こえますよ」

 小声でそう忠告してくれたのは三浦兄だ。

 聞こえていいんだよ。


「本日はいらっしゃらないのかと心配しました。体調でも崩されたのかと。夕べは少し冷えましたしな」

「……いえ」

 昨日にも増してフレンドリーだ。友好的が過ぎて、抱き着かれそうな気さえする。

 谷、手をワキワキさせない。切り付けるのは絶対に駄目だからな。

 一応ここは北条の本陣の真っただ中なのだ。

「お加減はいかがでしょうか」

 勝千代の社交辞令な問いかけに、遠山がぐるりと顔の向きを変えて振り返った。

「まだ眠っておられますが、是非お顔だけでも見て行ってください」

「お休みなら今日は遠慮したほうがよいのでは。御容態に障るでしょう」

「何を仰る! ご親族ではないですか」

 ……思いっきり大声で言いやがったな。

「左馬之助様も若君がおいでになるのをことのほか楽しみにされておられました」

 しかも若君って言った! お前らの若君じゃないぞ?! 

 勝千代の背後で逢坂がイラっとしたのが分かった。

 一番の年長者で、若い連中のストッパーになるべき立場なのに、この男も導火線が短いのだ。


 通されたのは前にも通された広間だった。

 足を踏み入れるのを躊躇ったのは、そこにあまりにも大勢がいたからだ。

 待て、見舞いだろう?

 真意を問うように見上げると、遠山はそれはもう、胡散臭いほど満面の笑みを浮かべた。

「さあさあ」

 直接背中に触られたわけではないが、まるでぐいぐい押される感じで中に入るよう促された。

「遠山殿、これは……」

「左馬之助様がお待ちでございます」

 ……サプライズパーティでもやらかすつもりか?


 立ち尽くしているわけにもいかないので、小さく息を吐いてから足を踏み出す。

 既に開け放たれていた広間の、見えていたところだけでもぎっしりとむさ苦しい男たちがいた。

 しかも、この状況下で、皆が直垂姿だ。

 前に来たときには、ほとんどが小具足姿、護衛に立っていた者たちは胴丸をつけ物々しい様子だったのに。

 何の集まりだ? 嫌な予感しかしないぞ。


 武家屋敷とはいえ、城の大広間のように広大な部屋があるわけではなく、すべての襖を開け放って学校の教室を少し広くした程度の空間を作っていた。

 そこにぎっしり大人の男が座っている。隅から隅までぎゅうぎゅうだ。その状態が見える範囲、回廊付きの廊下や庭先にまで及んでいて、明らかなキャパシティーオーバー。遮る襖も壁もないのに、満員電車並みの閉塞感だ。

 足を進めると、ざざっと男たちが左右に割れた。

 勝千代だけではなく、その護衛十名を遮ることなく通す。こちらを警戒する以前の問題で、座ったまま。ご丁寧に頭を下げている者までいる。

 海が割れるように道ができ、その間を通って先に進むと、行きつく先は一段高く作られた上座。

 すだれが下ろされ、その先にうっすらと見えるのは几帳だった。

 左馬之助殿がいるのか?


 しかし、そこに行きつく前に足が止まった。

 すだれの前に、荒縄でぐるぐる巻きにされ猿轡を噛まされた成人男性が五名、芋虫のようにじたばたしながら転がっていたのだ。

 知らない顔だ。いや北条方で見知った顔などごく少数なのだが。

 ちらりと頭をかすめたのが、もしかすると伊勢殿の特使かもしれないという危惧だが、違うだろう。小具足姿で、しかもあちこち怪我をしている。


 気づまりな沈黙が流れる。

 びたんびたんと魚が暴れるような音だけが板間に響き、どうコメントするのが正解かわからなかった。

「……お取込み中でしたか」

 邪魔だよね、だったからまた改めますぅ……とはならず。

「お気遣いなく」

 ニコニコ顔の遠山に一刀両断、退路を断たれてしまった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 軍師が欲しいんですね、きっと。 全力で取り込みに来てるじゃないですか。
[一言] あらまあ大きなヤマメだこと()
[一言] 先が全く読めないですね...明日も期待
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