14-5 伏見 風魔小太郎5
「悪い話ではございますまい」
地獄の底から響いてくるような声の主をじっと見上げる。
ピカリと夜空が明るく染まり、次いで雷鳴がとどろいた。
雷光が差すたびに男の太い眉とがっちりとした頬骨のラインが照らされ、よりおどろおどろしく恐ろし気に見える。
「如何なさる?」
まるで悪事へ誘うような口ぶりだった。
「断ると言えばどうする」
「……お断りなさると?」
不服もあらわなその声に、逢坂老をはじめ勝千代を守る面々は激怒した風に息を荒立てた。
だが勝千代は用心深く肩をすくめるにとどめ、内心感じている不安や恐怖や苛立ちを念入りに覆い隠した。
こちらから男の表情の細部をうかがい知ることはできない。
反面、時折差す雷光により、勝千代の顔は無防備にさらされている。
「それで片がつくほど簡単な事か?」
ますます雨が強くなる。
貸店舗の入り口から斜めに吹き込む豪雨が、男の身体を濡らしている。
「例えば首ひとつで事が収まるのだとしても、それを始めてしまえば武士などいらぬ」
再び屋外が昼間のように明るく照った。
次いで、これまで以上の音量でドシンと轟音がなり、バキバキと木が裂けるような音がした。
勝千代は目の前にある市村の肩をぐっとつかみ、膝が震えて折れそうになるのを堪えた。
……ああ、それが北条のやり方だった。聞くのではなかった。
風魔の忍び頭が持ちかけてきたのは、伊勢殿の暗殺だった。
本気で言っているのかどうかはわからない。
実際はそういう行為が横行しているのだとしても、世間一般では非道詭道邪道だと疎まれている。
「そういう手段」を取るという噂ひとつで、周辺から危険視されるだろう。
それに、敵を暗殺で片を付けるスタイルがまかり通れば、逆に敵からも暗殺される可能性があると常に警戒していなければならない。
他ならぬ勝千代自身が、この四年、その危険に悩まされ続けた。
しかもその相手は、目の前にいる物騒な忍び頭なのだ。
腸の底から、ジワリと怒りが込み上げてきた。
いや、ここで怒るのは間違っている。何故なら彼らは単なる武器だ。命じる者がいるから刀を振るうのだ。
幾度も自身にそう言い聞かせ、飲み込まねばならなかった。
「よりにもよって、この私に話をもってきた理由は」
この四年で死んでいった者たちの顔を思い浮かべながら、静かに問いかけた。
「拒否される事はわかっているだろう」
「さてそれはどうでしょう。難しいことをお頼みしたいわけではありませぬ」
雨音が強まり、同時に風も吹き付け始めた。
この時代の家屋は通気性が良すぎて、とかくガタガタと音をたてる。
その音に紛れて、漏れる呼気の多いその声は聞き取りづらかった。
「その者を借り受けたい」
すっと伸ばした指先にいるのは、弥太郎だ。
「無事大願を果たせたなら、二度と御身を煩わせぬと誓いましょう」
知らず、ため息がこぼれた。嘆息と言ってもいい。
風魔の忍び頭は「ぐつぐつ」と嫌な感じで笑っているし、他の者たちはピクリとも動かない。
それは弥太郎本人もそうだった。
常に何を考えているかわからない男だが、後ろ姿だとなお読み取れない。
これが風魔流の謀略か。勝千代の守りの強力な一枚を剥ぎ、長年果たせなかった命を果たそうというのか。
あるいは、本当に弥太郎の能力が必要なのか。
前者だとすれば、『今後煩わせない』という言葉と齟齬が生じる。後者だと、弥太郎に毒でも盛らせようというのだろうか。
「断る」
勝千代はさして長く考える必要すら感じず、即答した。
「……ほう」
「後ろ暗い事には関わらないようにしている」
男の表情はやはり暗くてよくわからないが、何故かひどく驚いたように押し黙った。
いや、どうしてそんな雰囲気になるのだ。至極まっとうな返答だと思うぞ。
「我らはその『後ろ暗い仕事』で食っております」
しばらくして、そう言ったのは弥太郎だった。
勝千代は少し首を傾げて「そうか?」と問い返す。
最近の弥太郎の仕事といえば、諜報と護衛、ついでに勝千代自身への投薬だ。諜報が「後ろ暗い仕事」だというのなら話は別だが。
「穢れ仕事をするのが忍びというもの」
風魔の忍び頭の、急に含み笑いをおさえ平らになった声に首を傾けた。
この男がいう「穢れ仕事」なるものは、やはり暗殺やそれに類する任務なのだろう。
「ずっとこのままでいるのか? 孫子の代までずっと?」
勝千代は幾らか気の毒になってきた、
ブラックもブラック、北条家に仕えるのは大変そうだ。
「……得物は使ってやらねば鈍らになると申します」
「下手なものを切って回るより、念入りに研ぎ長く大事に使ってやるほうがよいと思うが」
特殊技能集団である忍びたちを使いつぶす? そんなもったいない事はしない。
「貸し借りをするようなものではないし、そのつもりもない。……この話はこれまでだ」
勝千代がそう言った瞬間、ひときわ明るく夜が切り裂かれた。
まるで真昼のように表の通りを照らし、斜めに吹き付ける雨すら見えなくなるほど一気に光が満ちる。
明るくなったのは数秒だが、瞳孔は鋭い光を取り込みズキリと目の奥が痛んだ。
だが、眩さに目を閉ざすことはなかった。
ひと際強い光が満ちた瞬間に、こちらを向いた風魔忍びの顔がはっきりと瞼に焼き付いてしまったからだ。
そこに角や牙が生えていたわけではない。
ごつごつとした恐ろしく強面な面相だとは思うが、人の範疇から離れているわけではない。
だが異様な表情だった。今にも頭から好物の人間を食いそうだと言えばわかってもらえるだろうか。
子供が見たら確実に号泣するやつだぞ。おねしょの心配がいるやつだ。
「……面白い」
「私は面白くない」
腰を引かせながら、反射的にそう答えると、再び例の軋むような笑い声が聞こえた。
「いや、思いのほか有意義なお話を聞かせて頂いた」
有意義? 誘いは断ったはずだ。きっぱりはっきり、誤解がないほどに。
「それでは、御免」
断ったはず。断ったよな? そう迷っているうちに、入り口を塞いでいた黒い影は消えていた。
翌朝、いつものように薬湯を持ってきた弥太郎から、あの男の名前が『小太郎』といい、段蔵とは幼いころからのライバルだったと聞いた。
小太郎? まさか風魔小太郎?
直接そう尋ねるわけにもいかず、目を丸くして動きを止めてしまったが、弥太郎は何故か深々と頭を下げていたので、気づかれることはなかった。




