13-3 伏見 北条軍争乱3
「今日中に動く気配がいたします」
そう言って少し考え、白い髭が伸びてきた顎をさすったのは逢坂老だ。
どうやらこっそり北条本陣を見に行ったらしく、騎馬の支度を遠目に見てそう感じたようだ。
「左馬之助殿は伏見にとどまるよう命じているはずだが」
「ですが、馬はすべて草を食い、水を飲み、すぐにも鞍を乗せる用意が整っております」
「北条の騎馬隊はどれぐらいだ?」
「騎兵自体は百を越えません。残りは替え馬あるいは荷馬です。すでに轡を食んでいるのもおります」
「それは……随分と急いでいるな」
勝千代は、味方のはずの自軍の中で、どうやら浮いた存在になりつつある左馬之助殿を思い浮かべた。
さすがに今頃は、あの暢気顔を改めているだろう。
それにしても、当初考えていたよりもかなり状況が悪い。
副将の伊勢弥三郎はこうなる可能性をあらかじめ考え備えていたのだろう。
「左馬之助殿の容体は」
「変わらずお元気そうです」
弥太郎の、いかにも興味なさげな他人事の口調に苦笑する。
少なくとも数日前までは、起き上がるのがやっとの状態に見えた。
容体があの時とたいして変わらないとして、ずっと本陣にいるのはつらいだろうから、話し合いに結末がつこうがつくまいが、夜は伏見に休みに来るはず。
狙われるとしたらそのあたりか。
護衛に不備はないかなど気にしてやるつもりはなかった。
勝千代ならば、わざと手すきに見せて襲わせる。左馬之助殿も同様に考えるかもしれない。
「危うくなれば雨月様をお守りし、伏見を離れる」
積極的にかかわるつもりはないし、巻き込まれるのも御免だ。
そんな勝千代の意をくんで、周囲の大人たちが頷く。
逢坂の読み通り、軍に動きがあったのはその日のうち。太陽がオレンジ色に眩く輝く夕暮れ時だ。
移動の最大効率を考えれば、出立するなら早朝がセオリーで、こんな時刻に動くなど行先がよほどの近場か夜襲かしか考えられない。
どこに向かうのか。
街道を南下か? 左馬之助殿がいる伏見を襲うか?
自軍の大将を襲撃すれば、謀反などありえないとしたカバーストーリーが破綻してしまうから、表立っては伏見に刃は向けないと思うのだが。
北条軍はいったん南に進むかに見えた。
よもや動くなという総大将の命令を無視し、かつその本人を置き去りにするのか。
じっとその動きを見守っているのは、勝千代たちだけではないだろう。
あまたのその凝視の存在を、果たして副将は気づいているのだろうか。
連子窓越しに茜色の空を見上げていると、足元で弥太郎が片膝をついた。
改まって何か報告があるという彼の意思表示だ。
「本隊とは別に、別働部隊がふたつ動きました」
弥太郎の聞き慣れた声がもたらした情報に、周囲の大人たちが「いよいよか」と刀の柄に手を置く。
「数は」
「それぞれ二十」
勝千代はちらりと弥太郎に視線を向けた。
北条軍千のほうに周囲の目を引き付けて、主目的はその別働部隊か。
たとえば伏見を殲滅する為であれば少なすぎる数だが、左馬之助殿に向けてであればありえなくもない。
どちらかが囮、どちらかが本丸狙いだろう。
本丸が左馬之助殿なら、囮はその身を守っている者たちへの陽動だろうか。
幸いにも、左馬之助殿が宿泊しているのは、伏見の宿場街とは少し離れた位置で、無関係を貫き通すこともできる。
ただし、狙いが公家衆、権中納言様である可能性も捨てきれないので、こちらも迎え撃つ心づもりは必要だ。
「備えよ」
勝千代の端的な言葉に、弥太郎含め皆がその場で頭を下げた。
その夜に起こったことは、おそらく歴史には残らないのだろう。
勝千代は、鼻腔を充満する錆びた臭いに鼻を摘みたい衝動と戦いながら、黒装束たちの無残な死体を見下ろした。
あちらが関わってこないのなら、無関係を貫くつもりだった。
だがしかし、連中の陽動部隊は風魔忍びをよりにもよって市街戦に誘導し、ついでとばかりに奥平ら今川の文官たちの口を塞ごうとした。
大乱闘のすえの不幸な事故を装いたかったのかもしれない。
だがしかし、奥平らは事前に宿泊先を移動していた。勝千代や権中納言様よりいい宿に泊まっていることに気がとがめたのだろう。
結果、陽動の襲撃は伏見のごく限られたエリアに限られ、一般人の被害はなかった。
今足元に転がっているのは、そのほとんどが黒装束の武士だ。
応対したのは北条風魔衆。勝千代らは遠目で見守っていただけだ。
左馬之助殿? 休んでいたところを襲撃されて、そのまま本隊とかち合わないよう逃げ回っていたようだ。
彼自身がまだ戦う事ができないので、やむを得ないともいえる。
「いやあ、またも助けられた」
そう言いながら、玉の汗を浮かべた若い側付きに背負われているのはどうかと思うが。
「……いえ、我らは何も」
勝千代はため息を飲み込みながら答える。
「とりあえず、そちらの建物に入りましょうか」
そう言って指し示したのは、先だって遠山や巨漢の風魔忍びと対面した、例の空き店舗の二階だ。
「おおすまぬ。ずっと背負われているのは申し訳なくてな」
まったく警戒していないその口ぶりに、もうひとつ余計にため息がこぼれそうになる。
これで勝千代が日頃のうっ憤を晴らそうと考えたらどうするつもりだったのか。
この男はいつかその考えなしの善性で死ぬのだろう。
そんなことを、ふと思った。




