12-5 伏見 北条軍5
「お改め下され」
奥平の沈み込んだ声色に、北条軍の若い斥候頭が不安そうな表情で視線を泳がせる。
まあな。言っては何だが地方の一侍に過ぎない若造だ。死人の首は見慣れたものでも、公的な対応云々は門外漢だろう。
「どうされた? 我らはもう、御気の毒で見ておれぬのだ。せめて早う菩提を弔って差し上げたい」
その声は震え、やがて若干の涙声になる。
いまいちウソ泣き臭い気もするが、純朴な若武者はコロリと信じ込んでしまったようだ。
いいぞ、奥平。
今現在、伏見の町の外には、北条軍千の本隊がいる。
といっても本格的に陣を張っているというよりは、馬に水を与え歩兵も食事トイレ休憩のための休息だろうか。
伏見に踏み込んだ部隊はおおよそ百五十弱。
騎馬が五十ほどと、残りは歩兵だ。
今奥平と対面しているのは、その斥候部歩兵隊の組頭で、見るからに事情はまったく何も知らなさそうな若者だった。
ただ、上等な絹に包まれた坊主頭の子供の首を前に、どうすればいいのかわからない様子で困惑している。
「世の中にどういう噂が蔓延しているか存じておろう? 吉祥殿はきっと何者かに陥れられたのだ。伊勢殿はそれが分かっておられたから、我らに預け、駿河に落ちさせようと手配なさったのに……お守りしきれず、申し訳ない」
若武者が手にしているのは、崇岳が隠し持っていた例の書き付けだ。
内容は吉祥殿を出家させるので、約定通りに駿河で預かってほしいという内容で、きちんと伊勢殿の名が明記してある。
この若手は気づいていないようだが、日付がない。
伊勢殿にしてみれば、いずれどこかでそれが明るみに出るとしても、公方様殺害が起こる前のものだと言い訳が立つ。
だがそれは逆にも利用できるという事だ。
こちらの筋書きとしては、預かった吉祥殿を連れて伏見に向かう最中、山賊じみた坊主頭の集団に囲まれ、逃げ込んだ小屋に火を放たれた。その際に脆い小屋は焼け落ちてしまって、当家の者がいくらかと吉祥殿が死んでしまった。
「助け出そうとしたのだが、力及ばず……」
うなだれ涙を流す奥平の広めの額には、痛々しい火傷の痕がむき出しになっている。
弥太郎の特殊メイクだ、すごいよな。
ちなみに、今勝千代がいるのは物置の中だ。
葛籠などを入れる四方を襖で仕切られた小部屋で、大人だと五人も座れない手狭さだ。
この対面の様子は、客の顔が見える位置から逐一のぞき見……もとい、観察していた。
見ている限りでは、うまく誘導してくれているようだ。
「まだ坊主どもがいるやもしれず、御首しかお連れすることが出来なんだ。済まぬが、お身体の方を迎えに行って下されぬか」
「わ、我らがですか?」
「恐れ多くも足利将軍家の若君。野ざらしにするのは忍びない」
そこまで言って、奥平はふうっと貧血を起こしたように頭を揺らした。
「奥平殿!」
崩れ落ちかけたその身体を支えるのは、左右に控えた配下ふたりだ。
今川家の用人と名乗った奥平たちは、その全員がいかにも文官な優男ばかりで、皆火傷だけではなく怪我も負っている風体を装っていた。
実際は奥平の連れにも護衛を務める武官はいるし、文官連中の中にも腕に覚えのある者はいる。
だが北条家の斥候と対面する者は、第一印象がひょろりとか細そうな連中を選んだので、体格がいい武家の若者はすっかりこの者たちが非力だと信じ込んだようだ。
「ああ、なんとお詫びすればよいのだ……いっそ腹を切り」
「本国の御屋形様にすべてお話して、それからですよ」
「そう、そうよな」
互いに慰めあっている文官たち。
頼りなさ満載、ついでに言えば扱いづらさも満載だ。
何しろ北条家にとって今川の御屋形様は大切な親族であり同盟相手、一介の家臣如きが不用意なことは言えない。
「そ、その山賊のような僧形というのは?」
取ってつけたような質問に奥平が気力を振り絞った様子で顔を上げる。
うわ、後ろから見ていてわかるぐらいに涙が床に滴り落ちているぞ。
きっと例のごとく、渋みのある顔立ちが台無しになる泣き顔を晒しているのだろう。
北条方も見てられないと思ったようで、微妙に視線が逸れている。
なるほど、奥平のあの泣き顔はそれ自身が武器なのか。
油断を誘うという意味で、中年男の涙もそれなりに有用なのだと納得した。
「山中の暗がりで、はっきりとは。……武器を持ち、屈強な体躯をした僧形だったのは確かなのだが」
か細く震え、今にも消え入りそうな声だ。
「同行していた臨済宗の僧侶が申すには、同門かもしれぬと」
そうそう、方々で女子供まで殺して歩いている天龍寺派の武装兵。連中ならやりそうだと思うだろう?
天龍寺派は代々の足利家の菩提寺だが、そんな由緒正しき寺の者たちが、どうしてあんな無残な事をして回っているのかは不明だ。
ただ、人の口に戸は立てられぬ。ここ数日の暴虐は北条の若い連中の耳にも届いているのだろう。奥平が「菩提を弔いたい」と繰り返すたびに、次第に複雑な表情になっていく。
吉祥殿の骸の扱いなど、面倒ごとだと思うだろう?
相手が今川の用人だと聞けば、粗略には扱えないと思うだろう?
勝千代は頷き、のらりくらりと北条方を煙に巻いている奥平に再び目を向けた。
今のところ、あの男は十全にその役割を果たしている。
そうそう……その調子。
勝千代が襖の隙間から仔細を伺っていると、背後の部屋に続く反対側の襖がすっと開いて、薬草の匂いが漂ってきた。
弥太郎に限って言えば、近距離だと来たことがすぐにわかる。
たぶん、こちらの軟な心臓のためにわざとそうしてくれているのだろう。
「……例の男が来ております」
勝千代はわかったと頷き、そっと席を立った。
弥太郎ほど音もたてず動くことはできないが、奥平のひと際盛大な号泣のおかげで、多少の足音ぐらい問題ない。
だがその動きは途中で止められた。
ざっと地味な武家装束の男たちが降ってきて視界を塞いだので、何が起こったのかはわからない。
なるほど、普段忍び衆はやはり天井裏に居るのだなと場違いな事を考えながら、谷によってそのまま物置から隣の部屋に運ばれる。
これだけの人数、これだけの動きがあるのに、まったく物音ひとつ立たないのが不思議だった。
谷ら護衛組が勝千代の周囲を団子のように取り囲み、更にその周りで短い刀を抜いているのは、正直まともに顔を見た事のない者たちばかりだ。
弥太郎が棒立ちになって、一人の男の対面に立っている。
だらりと垂れた両腕に武器はないように見えるが、騙されてはいけない。
勝千代がそうと知っているように、相手の男もそれが分かっている様子だった。
大きな男だ。
異相と言ってもいい巨躯だ。
対する弥太郎は中肉中背、どう考えてもまともに張り合えるようには見えない。
さすがにマズいのではないか。
第一印象、そう思ったが……相手はひとり、こちらは多勢だ。
「争いに参ったのではない」
しばらくの睨み合い末、聞こえたのは潰れた声だった。気管から呼気が漏れるような声をウィスパーというらしいが、そんな可愛らしいものではない。
まるで地鳴りのようなゴロゴロとしたその声の主は、無手を強調するかのように両手を広げ、ぐるりと周囲を見回してから、ひと際ちんまりとした勝千代に視線を向けた。




