12-3 伏見 北条軍3
「いやや!」
愛姫が手を伸ばすのは、権中納言様へだ。
その頬を濡らす涙は、もう一生乾くことはないのではないかと不安になるほど大量だ。
「おもうさま! おもうさま!」
万千代君も姉の取り乱しに触発されて泣き出し、同時に乳飲み子の姫も大声で号泣している。
子供たちはそれぞれお付きの者たちに羽交い絞めにされ、その上からばさりと真新しいござを掛けられた。
「……出せ」
権中納言様の苦渋のこもった命令に一瞬ためらい、船頭が笠をかぶった頭を下げる。
二隻の十石舟がゆっくりと岸を離れる。
日常的に大量の物資を運ぶ輸送船だが、定員より多く詰め込んだ船は若干重そうに沈んで見えた。船頭いわく、もっと重い荷を運ぶこともあるそうなので、それほど心配しなくてもいいのだろう。
日向屋の二隻だけではない、舟泊まりから多くの船が漕ぎ出され、川を下り始めている。どの舟もパンパンに人を積み、中には船べりから落ちそうになっている者すらいた。
皆一斉に、伏見から脱しようとしているのだ。
「……あにさま!」
遠ざかる船から、最後にそう呼ばれた気がした。
勝千代は無数の船に紛れて見えなくなるまで見送って、彼女たちの無事を願った。
どうか無事に川を下りきってほしい。
北条軍が迫っているという話は割とすぐに広まったが、当初心配したほどの混乱は起こらなかった。
だがこの時代の、特に京の治安の悪さに慣れた人々の動きは早く、まるで蜘蛛の子を散らすように皆がこの町を出ようとしていた。
船には定員があるので、多くは徒歩での出立だ。
一時通りは通勤ラッシュを連想させる混雑具合だったが、次第にそれも捌けてきた。
変わらず人の数は多いが、誰もが俯き加減で足早に移動している。
「お勝殿も早う出立した方がええ」
多くをご家族の護衛に割き、権中納言様の供回りは十名足らず。あまりにも少ない。
権中納言様いわく、一度下京の皇子のもとへ戻るのだそうだ。
そちらにもいくらか家人を残しているのだと北の御方に言っていたが、予想ではそれほど多くはないだろう。
それとも、あまり多くを引き連れている事の方を危ういと感じているのか。
今、勝千代の足元には二通りの道がある。
このまま北条軍をスルーして堺に向かい出立するか、権中納言様の手助けをするか。
京へ戻ることへのためらいはもちろんあるが、それよりも、まるで後顧の憂いを絶つかのような行動をしている権中納言様が気がかりだった。
「はよう行かんと面倒ごとになる」
更にそう言って勝千代を伏見から去らせようとする横顔に、ふと寒月様の面影が過った。
四年親しく付き合ってきたあの方への情は、恐れ多いが祖父に対するものに似ていて、その御子息が死地に向かうのを見捨てていくことなどできそうになかった。
「今後のご予定は?」
まるで明日の天気でも聞くかのような口調になってしまった。
権中納言様もさすがに驚いた風にこちらに目をやり、寒月様には似た所のない面長顔を唖然とさせる。
「北条軍をかわして下京へ? 山科を経由し東山を越えますか?」
「……いいや、お勝殿はこのまま街道を下るのや」
そして家族が無事土佐へ向かえるよう手助けして欲しい……そう言いたいのは理解できる。
だが、堺についてしまえば、勝千代よりも日向屋のほうが役に立つ。
勝千代が何かできるとするなら、それは、この御方を死なせないよう手を尽くすことだ。
「それ」がやってきたのは、なおも権中納言様が勝千代を説得しようと口を開きかけたその時だった。
「そこの者ども! 今すぐ舟を止めよ! 今後一隻たりとも船泊りから出ることは許さん!」
響き渡る大音声に、怯えたような悲鳴がそこかしこで上がる。
訛りが関東だ。
勝千代は耳に馴染むその声の主を確かめようとして、権中納言様の腕にさえぎられた。
正確には、勝千代をかばうように身を挺されたのだ。
ドドドドドドと波止場に騎馬が駆け込んできて、「きゃあ」「わあっ」とあちこちから声が上がる。
勝千代はさっと船泊りを振り返り、日向屋の船を探した。
混雑していた船は半数ほど川にでているものの、残りの半数がまだ船泊りに残っている。
幸いにも日向屋の船はすでになかった。船頭の腕が良いのか、渋滞をかいくぐりいち早く川に出たようだ。
川に出てしまった船を止めるのは難しい。このまま一気に河口まで下ってくれることを祈る。
勝千代は素早くそれだけを見て取ると、ぐい、と権中納言様の狩衣の袖を引いた。
「船はすでに川に出ています。このままそっと下がりましょう。あちらの角まで」
波止場は混雑しているし、公家も大勢いたので、権中納言様はそれほど目立っていない。
むしろ、大勢の護衛を引き連れている勝千代の方が人目を引くかもしれない。
「待たれよ、武家の」
方々で悲鳴が上がるさなか、すっと通る声が騒音を貫いて聞こえた。
「馬で子供を踏む気ぃか? 乱暴な事はやめよ」
東雲の声だ。
振り返って確認しようとしたのに、またも視界は高級な布地にさえぎられてしまった。
挙句は意外とがっちりとした腕にひょいと抱えられてしまう。
抗議の声を上げようとしたが、この場で「権中納言様」とお呼びするのはさすがにまずい。
ためらっているうちに勝千代ごと波止場を抜け出て、権中納言様は無事北条軍の視界から脱した。
勝千代は権中納言様に抱えられる、というレア体験をしながら、遠ざかる騎馬隊を視認した。
東雲と向かい合っているのはまだ若い武士たちだ。
馬具の誂えなどから、それほど身分は高くないのがわかる。
数は見えているだけだと三十程。本隊ではなさそうだ。
東雲の抗議に腹を立てた風ではあるが、刀を抜きそうにはない。
角を曲がるまでの数秒で見てとった内容に、素早く頭を巡らせて。
通りを抜け、逢坂老の腕に小荷物のように渡されながら、こっそりとその耳に囁いた。
「奥平を呼べ」
皆さまの励ましの御言葉、ありがとうございます。
入院する必要まではなさそうなので、養生します。
更新予定はそのままですので、ご安心ください。




