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春雷記  作者:
京都編

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11-5 伏見5

 連れて来させた吉祥殿は、猿轡をされ、大人用のぶ厚い小袖の上から荒縄でぐるぐる巻きにされていた。

 おい、仮にも足利の血筋だぞ。

 あんまりなその有様に、どうコメントしていいかわからないでいると、同様に感じたらしい崇岳が慌てた様子で吉祥殿の側に駆け寄った。

 だが芋虫小坊主は、助けの手すら拒む様子で大暴れし、崇岳の足どころか下腹部の大事なところを盛大に蹴飛ばした。

 たまらず悲鳴を上げて転がった崇岳を、男前僧侶が庇うように支える。


 勝千代は座ったまま、一向に諦める気配のない吉祥殿をじっと見つめた。

 体力を無駄に消費するだけなのに、一瞬ももがくのをやめようとしない。

 それはそれで、すごいバイタリティだ。

 状況のわからぬ子供であろうとも、ここまでくれば幾らかの諦めや達観を覚えるのではないか?

 何が彼をここまでさせるのだろう。


「……押さえろ」

 勝千代がそう命じると、黙って控えていた護衛の二人が立ち上がり、前に出てきた。

 ひとりが暴れる芋虫の背中に膝を乗せ、もう一人はバタバタと動く両足をひとつかみにする。

 最初こそすごい勢いで抵抗しようとしてきたが、容赦ない抑え込みにくぐもった悲鳴が混じった。

 関節かツボを極められたのだろう。痛そうだ。


「騒がないのであれば、猿轡を外して差し上げますよ」

 勝千代はあえて優しく丁寧な口調で言った。

 吉祥殿は大きな目でこちらを見て、再びその眼差しに憎しみの炎を燃やしたが、ぐっと背中を踏まれてまたも悲鳴を上げた。

「ら、乱暴な事は!」

 崇岳はそう言うが、彼自身痛む部分を押さえ身体を丸くして及び腰だ。

「暴れてご自身も周りも怪我をするようでは困る。落ち着くまでこのままで」

 勝千代はあえてゆっくりとした口調でそう言って、脇息に肘をついた。


「……さて、どうしたものか」

 明らかな厄介者。明らかなお荷物。

 おそらくどこへやってもそういう扱いしかされないだろう吉祥殿を、気の毒に思わないわけでもない。

 だが、何もかもこの子のこれまでの態度がもたらしたことだ。

 初手から大人しく、分をわきまえた態度でいれば、誰かが手を差し伸べてくれたかもしれないし、ここまで厄介者扱いされはしなかっただろう。


「いっそもう首をはねてしまえばよろしいのでは」

 単純明快な解決策を提示した逢坂老に、苦笑する。

 確かに、それが最もシンプルで、おそらくベストな方法だ。

 崇岳は痛みをこらえて丸くなっているし、そのほかの武家の者たちも仕方がない、という表情になっている。


 そう、誰の立場からしてみても、この子は居なくなった方がいい。

 今川家としてはもちろん、おそらく公方様を手に掛けた一派にとっても。

 足かせになりかねないその身をかくまい生かそうとする理由は、どう考えてもその身に流れる血筋だろう。

 むしろ、兄を殺してなどいないと公言されては困るだろうに。


「わざわざ我らが手を汚すまでもない」

 勝千代が苦笑しながらそう言うと、吉祥殿の背中を踏んでいた護衛の市村が若干だが不服そうな表情をした。

 まあそうだな、腹に据えかねるクソガキだと思っているのは、皆同じだ。

 勝千代も内心では、奥歯を折られた事とか一条邸への殴り込み事件とか、少しはお灸を据えられるべきだと考えている。

 松田父の件もそうだ。詳しくは聞かなかったが、かなりの重傷のようだった。

 感情にブレーキを掛ける事が出来ず、やみくもに周囲に災禍を振りまくだけならば、いっそ……

「そのあたりに転がしておけば、誰ぞが口封じに殺しに来るだろう」

 方々から恨みを買っている自覚があったらしい、我儘小僧は急に唸るのをやめ、顔から血の気を引かせた。

「伊勢殿には逃げられたと言えば済む。護衛もつけず押し付けてきたのは、そういう事だ」


 勝千代は少し視線を宙に向け、思案した。

 盤面の指し手は、おそらく伊勢殿だ。

 これだけの事を起こしたからには、もちろん勝算があるのだろう。

 あるいはこれ以上時間を置けば、不利になる何かがあるのか。

 今はおそらく、北条と今川、あるいはそのほかの諸家が動くのを待っている状況のはず。

 どこまでが伊勢殿らに味方をし、どこまでが敵に回るのか。

 伊勢派が団結して事に当たれば、このまま新しい将軍を盛り立てその政権を維持していくことは可能かもしれない。

 だがそもそも団結できるのか。

 北条は国境に集中したいだろうし、今川はいま御屋形様の健康不安のほうが重大事だ。

 御屋形様御本人も、自身の死後への憂いになりそうな事に今さら巻き込まれたいとは考えないはず。

 伊勢殿が、そんな不安要素だらけの状況をわかっていないとは思えない。

 まともに考える頭があれば、勝負に出ようともしないだろう。

 よもや、他に当てがあるのか?


「……御屋形様は立たれないだろう」

 しばらくして、勝千代はそう結論付けた。

 手元にない手札の読みなどできるはずはなく、現状確かだと言えるのはそれだけだった。

 だが、京に太いパイプを持つ桃源院様や御台様は、そうは考えないかもしれない。

 そして御屋形様の御病状はすぐれず、既に今川家はお二方の意のままに動くようになってきている。


 勝千代が言葉にしない部分を、何名かは察したようだった。

 神妙な表情をしたいくつかの顔をさっと見回し、小さく頷く。

「余計な御心労をおかけする前に、ここで話は立ち消えにさせた方が良い」

「で、ですが書き付けが」

 ああ、吉祥殿を預かるという約定か。

 そのことを言ってくるあたり、崇岳らはただ吉祥殿の預け先として同行しているだけではなさそうだ。

 今川家の頭越しに、伊勢殿と取引したのだろうか。

 臨済宗妙心寺派として? もしかすると、天龍寺派と張り合っているのかもしれない。


「公方様を弑逆した御方を受け入れる、という約定か?」

「それは」

 勝千代の一瞥を受け、崇岳は口ごもった。

「ここで是と頷くようなら、すぐにもその首をもらい受けねばならぬ」

 崇岳はひゅっと鋭く息を飲んだ。

 勝千代は無意識に、その後ろの男前僧侶の方を見ていた。

 年齢的にもかなり若いし、座っている位置からも立場は低そうなのだが、何故か崇岳よりもこの男の方に注意を引かれた。

「今川によからぬ火種を持ち込んでどうするつもりだった?」

 がっつり視線が絡み合って、正直、己がどうしてその男を見ているのか、どうしてそんな風に見られているのかわかっていなかった。


 カチリと小さく刀が鳴る音がした。

 谷が警戒したのが何か、視線を外した瞬間に勝千代も理解した。

 笑いやがったぞ、この男。

 男前僧侶の、うっすらと笑った顔が妙に恐ろしくて、ぞっと背筋に鳥肌が立った。

「お待ちください! 吉祥殿はそのような事はしておらぬと先ほどから申し上げております!」

 己を支える男前僧侶の異様さにまったく気づいていない崇岳が、勝千代が視線を外したのを弱気と取ったのか、己の及び腰を挽回しようとしたのか、急に声を大きくして言った。

 張り切りすぎて声が裏返っているし、言っていることも白々しい。

 勝千代は一息入れて、緩く首を振った。

「事実がどうかではなく、それを口実に合力せよと言うてくるであろうよ」

 兄の公方を殺した弟を擁護する今川家。

 それはおそらく、新しい将軍を後見する伊勢殿と同等、いやそれ以上に反逆者としての色が濃く見えるだろう。

 今川はどうあっても、伊勢陣営側に立たざるを得ない。


「ほ、北条以上に伊勢殿のお役に立てば幕府における地位が」

「俗世を離れた身で何を言う」

 なおも続く崇岳の言葉を、勝千代は冷笑をもって退けた。

「それに……北条が手を引く可能性を考えたか?」

 崇岳らが知る由もないが、左馬之助殿の状況を鑑みるに、北条が伊勢殿と力を合わせる可能性は半々、あるいは更に低いように思う。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] もしやあの有名な…
[気になる点] 雪斎?
[一言] やはり、崇孚殿なのでしょうか。 勝千代に何を見たのか。怖いものです。
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