11-4 伏見4
危惧した通り、伊勢殿の仕込みだった。
吉祥殿を生かしているのは、足利の血筋を遺すためか、それとも何か考えがあるからか。
匿い育てたという義宗殿と同じく、時間をかけた策のひとつにするつもりなのかもしれない。
御所に火の手が上がったあの日、奥平は桃源院様の御命令で、御実家との定期連絡に上京していて、たまたま伊勢邸に挨拶に訪れていた。
約束していたのが、丁度伊勢殿が一条邸に来ていた刻限だ。
間が悪いというか、引きが強いというか。
なんの説明もないまま長々と一晩待たされた末に、暴れる吉祥殿の身柄を託され、駿河へ身を隠すよう命じられたのだという。
もとより前々から、吉祥殿を預かってもらえないかという打診を御屋形様にしていたらしい。
もちろん公方様に手を掛けたなどと、大醜聞が広がるずっと前の話だ。
了承したのが御屋形様御本人か、その周辺かはわからない。
だが確かに今川家は吉祥殿の受け入れを了承し、身柄を預かると、書面に書き記されていたそうだ。
「哀れな子です。御仏の元で修業し、心安らかに在れるのであれば……」
理路整然と説明してくれて、状況はわかってきた。
だが、感情論でまとめようとするのはどうかと思う。
「御坊も駿河のご出身か?」
切々と語る男前僧侶の言葉を遮り、勝千代はゆっくりと手の平で扇子を握った。
「……はい」
「あの御気性の御子を、親族の近くで扶育するのを危険だとは思わぬのか」
「仏の道を志す徒にその道を閉ざすのは如何なものでしょう」
「本当に帰依したと?」
勝千代の問いに、饒舌だったその口が止まる。
無理やり髪を落とされ、激怒する子供など扱いづらいことこの上なかっただろう。
出家することもだが、京を離れる事についても納得して受け入れたとは思えない。
あの調子で怒鳴り散らしているのなら、メインの宿屋街から少し離れた場所に棟借りしたのはそれが理由かもしれない。
「今回名乗り出た義宗様は、長く北条家が預かっておられたのだそうだ。伊勢殿は、似たようなことをお考えになって、押し付け先に今川を選んだのではないのか」
「押し付け先などと!」
崇岳がたまらず声を上げたが、勝千代がじろりと睨むと気圧されたように口ごもった。
「伊勢殿は劣勢だ。唯一の利点は義宗様の後見をしていることと、京に兵を置いている事。対する細川京兆家の兵力は連合で六万。おそらくはこの先もっと増える」
「そっ、それは」
「阿波の御方も黙ってはおられまい。京兆家と合力するかはさておき、すぐにも京へ兵をお出しになられるだろう」
さながら、応仁の乱の再来だ。
「伊勢殿はおそらく、駿河遠江伊豆相模を味方勢力にできると踏んでいる」
そう、吉祥殿を預かるという約定書があるなら、それが今川を味方に引き込む大きな要因になるだろう。弑逆者である当の本人が今川家に匿われているのならなおさら。
「巻き込まれるぞ」
勝千代のその一言を、大人はだれも否定できなかった。
勝千代はぐりぐりと額を揉んだ。
鈍痛がずっと消えない。
頭が痛い事が続くのもそうだが、元来虚弱な身体がそろそろ休息を求めているのだと思う。
だがそれどころではない。
今ここで方針を決めなければ、取り返しがつかない事になりかねない。
今川が兵を出すとなれば、真っ先に動員されるのは遠江勢だろう。
つまりは福島家も含まれる。いや、このところの情勢を鑑みれば、またも最先鋒を命じられてもおかしくなかった。
それを思えば、伏見で出会えてよかったのかもしれない。
今ならまだ、ギリギリだがなんとかできる。
「奥平」
依然として平伏したままの男に声を掛ける。
「この先どうするつもりでいたのだ? 本気で駿河へお連れするつもりだったのか?」
何も言わず震えているこの男が、底抜けに無能な馬鹿だとは思っていない。
つくづくタイミング、引き合いが悪い男なのだ。
「……い、いえ某は」
まあ、この男の立場としては否を言えはしなかっただろう。思いつきで何かができるほどの権限はない。
だが、考える頭があれば少なからず、このまま駿河に戻るのはまずいかもしれない、という思いはあったはず。
だからこそ奥平だけではなく、直接関わり合いになったことのない面々までもが、勝千代を見てほっとした表情をしていたのだ。
ため息がこぼれる。
「……っ、申し訳ございませぬ!」
「お、奥平殿?!」
ゴン、と床に額を叩きつけた奥平の姿に、困惑した風の僧侶たち。
ざざっと衣擦れと床のきしむ音がして、残りの今川家中の者たちも一斉に頭を下げた。
勝千代は大人たちの頭を見回して、もう一度長く息を吐く。
「与えられた命令を愚直にこなすのは間違いではない」
勝千代は疲れた身体を脇息に預け、もはや今さらな言葉を、二十も三十も年上の連中に投げかけた。
「だが、伊勢殿はそのほうの主筋ではないだろう」
「……はい」
「状況が変わったのだから、本国の許可がないうちは引き取れないと断るべきだった」
「はいぃぃぃ」
いやだから、いい年した中年男が泣くなよ。
奥平の伏せた顔の下にぼたぼたと涙が滴り落ち、大きな水たまりが出来そうだ。
この男の、いまいち心に響かない涙は何なんだ。涙腺緩すぎだろう。
四年前と全く変わらない感想を抱きつつ、再びこめかみを揉む。




