11-1 伏見1
その先はさしたる困難もなく、翌日の昼過ぎには伏見の町にたどり着くことができた。
道がそれほど険しいものではなく、ゆっくり歩いても日をまたぐほどの距離でなかったのは幸いだった。
旅慣れない女性陣の足取りは重そうだが、それよりも、平和そうな町に到着できたことに喜色を隠せない。
勝千代も、にぎやかな街並みを目にして「ほっ」と息を吐き、じわりと汗ばんだ額を拭った。
今息を吐いたのは安堵したからで、歩くのが限界だったからでは断じてない。
ふくらはぎはパツパツで、草履の鼻緒も食い込んで痛むが、疲労感よりも到着したという達成感よりも、無事に方々を送り届けたのだという安堵の方が強かった。
「勝千代様!」
道の先から呼ばれて顔を上げる。
見知った男の顔が人ごみの間に見えた。
日向屋佐吉だ。
誰が何を言う間もなく、勝千代の周囲を谷ら護衛組が取り巻いた。
普段は「福島の若さま」と呼ぶ男が、あえて名前の方で呼ぶことに違和感があった。
気にし過ぎか?
佐吉が近づいてくる前に、幾重にも護衛の壁が立ちふさがる。
佐吉はそれより手前で足を止めて、丁寧に頭を下げた。
「ご無事でようございました」
心からそう言っているようにしか見えないが、そのいかにも善良そうな表情は作り物だ。
すぐに何かがあるのだと察しがついた。
ここまでくれば一息つけると思っていたが、むしろ警戒を強めるべきだったらしい。
勝千代は急に、強く「見られている」と感じた。
しかも、あまり良い視線ではない。
「佐吉。そなたも無事か」
「はい」
一拍おいて近づいて来た佐吉を、谷以外の護衛が通す。
谷は最後まで勝千代の斜め前に立っていたが、佐吉の接近を遮ろうとはしなかった。
「例の御方が伏見におられます」
唇は笑みの形のまま動かず、腹話術のように声が聞こえる。
しかも絶妙に、近距離にいる者にしか届かない声量だ。
誰だよ、「例の御方」って。
「今川の御家中が匿っておられます」
しかも、ダブルでやってきた情報に眩暈がした。
京に今川家の者が頻繁に来ているのは知っていた。
むしろ、その事は詳細に調べさせていたと言ってもいい。
お互いに不快な思いをするだけだとわかっているので、できるだけ鉢合わせしないように気を使っていたのだ。
あの者たちは御台様や桃源院様の御実家に一部常駐していて、御用聞きのような形で伊勢邸にも出入りしていた。
大抵は小者の文官なので、それほど気にする必要はないはずだが……
「いや、出迎えてくれて助かった。皆さまお疲れゆえに、休める所の手配を頼みたい」
「お任せを」
誰にでも聞こえるよう、明朗な口調でそう言うと、佐吉もまた聞き取りやすい声色で応える。
早速案内を始める佐吉と並んで歩きながら、誰の目にも無邪気な武家のお子様に映るようにこやかに微笑む。
「それにしても、ひどい火事だったな。店の方に被害は?」
「ありがとうございます。おかげさまで何事もなく」
「下京にまで火は広がっておらぬと聞いた。それにしては逃れてきている者が多いな」
「京に滞在しておられた地方の方々ですよ。郷里に戻られるのでしょう」
「なるほど」
勝千代は、注がれ続けている嫌な視線の元を探しながら、町の規模にしては多い人の流れと、その者たちの装束に目を向けた。
山科に逃れて来ていたのは、着の身着のままの避難民という感じだったが、ここ伏見には旅装の者が多い。
京に居ては戦に巻き込まれるかもしれないと、早々に居を移そうとしているのだろう。
中にはあまり柄の良さそうではない連中も混じっていて、その者たちが一条家の女房殿たちに向ける視線は露骨だ。
大抵は武家の守りがあることを見て取り舌打ちして遠ざかっていくが、中にはずっと目で追ってきている者もいて、むしろ山の中より危険は多いかもしれないと気を引き締める。
「たいそうお疲れのようですね」
かなりくたびれた格好だと言いたいのだろう。勝千代らはどうでもいいが、公家の女性陣にはかなりつらかったはずだ。
「権中納言さまはまだ下京にいらっしゃると聞いている。北の御方はどうされているだろう」
「その話もせねばと思うておりました」
一瞬ドキリとしたのは勝千代だけではないだろう。
だが佐吉が促す方向を見て、ほっと安堵の息がこぼれた。
東雲が、相変わらず真っ白な装いで優雅に扇子を振っている。
弥太郎からは彼らについての詳しい情報はなかった。
最後に下京に入るところを見届けたと言っていたから、権中納言様と合流できたかもしれないと淡く期待していたぐらいだ。
東雲の暢気にくつろいでいる姿に気づき、女房殿や愛姫が息を飲む。
「やあ、ようやく来はったか」
何故に団子屋の軒先に座っているのだ。
鶸も鶸だ、暢気に湯呑みを差し出している場合か?
だが、遠回りをして東山を越えてきた勝千代らと違い、下京をまっすぐ抜けたのであれば、早く着くのは当然だ。
こちらは山科で足止めを食らったし。
「そちらもご無事のようで何よりです」
「あいた、チクリと皮肉を言われた気ぃする」
「とんでもない。ご家族も皆さま大事御座いませんでしたか?」
藤波家の屋敷も上京に構えていたから、被害は免れなかっただろう。
はずれの方なので風向きによっては無事かもしれないが、あの状況の京にいるよりは避難を選んだはずで、鶸がいるのであればご無事か否かの情報はつかんでいるだろう。
もちろん、勝千代が聞きたかったのは白玉殿の方だ。
最後にするりと離した、白くたおやかな手を思い出す。
「福島勝千代!」
もの凄い大声で名前を呼ばれ、勝千代は己の笑顔が引くのを感じた。
聞き覚えのありすぎる声だ。
声変わりもまだの、甲高い少年の声。こんなところで聞くはずはないと思っていた声だ。
知っていたのだろう東雲が、呆れ果てた表情で扇子を開け閉めし、嘆息する。
勝千代は嫌々ながら声がする方向に顔を向けた。
フルネームで呼ばれたので、そうせざるを得ない。
一直線に勝千代の前から人がはけていて、その先に声の主がいた。
佐吉が言っていた「あの御方」だろうな。
慌てた風に引き留めようとしているのは僧形。
ついでに言えば、その子の頭にあったはずのツヤツヤな総髪はなくなっていて、剃ったばかりのようなツルツルのピカピカになっていた。
……吉祥殿だ。




