9-6 山科本願寺外2
「どうぞ」
田所に差し出されたのは笹で包まれた梅干しだった。
思わずまじまじと見下ろしていると、土井が捧げ持っていた湯呑みにぽちゃんと落とす。
「毒見もどうぞ」
土井の手から湯呑みが消えて、次の瞬間、勝千代の側には弥太郎が立っていた。
ずいぶんと久々に見る気がする。
ずっとそばにいる事が当たり前すぎて、彼の不在が実は不安だったのだ。
「戻ったのか」
弥太郎はじろじろと梅干し入りの白湯を眺めてから、にこりと微笑んだ。
「はい。遅くなりました」
「無事ならばよい」
勝千代は頷き、早速話を聞こうとその顔を見上げる。
「……負傷したのか?」
「お気遣いなく」
この男については、返り血を浴びているという印象しかなく、怪我を負ったところなど見たことがない。
それほど腕の立つ忍びなのだが、その顎あたりに薄く刃物傷があった。ほんの少し掠めた程度のものだが、この男にしては珍しいことだ。
「京の様子はひどいのか」
「特に忍びの侵入を警戒していますね。内情が外に漏れないよう相当に気を使っています」
それほど知られては困ることがあるのだろうか。
知られて困る? そんなものがあると周囲に思われる時点で、既にその行動には無理がある。
勝千代はちらりと松永に目をやった。
勝千代にとっては対岸の火事だ。気になるのは知己が無事であるかの一点だが、この男は違う。
彼をあえて山科に同行しなかったのもそれが理由だ。
この時期の本願寺と天龍寺の対立が、京の事情と関係しないはずはなく、幕府の役人である彼がどういう思惑で動くかはっきりしなかった。
姫君たちを連れている以上、不確定要素は退けておきたかったのだ。
本人はもはや幕府に忠義を尽くすつもりはないと言っているが、まだそこに籍があることは事実で、要するに口ではどうとでも言える状況。
このまま行動を共にするのであれば、注意して監視しておかねばならない。
松永には気づかれないうちに目を逸らした。
本人にはわからずとも、弥太郎は気づいただろう。つまり、彼の前で臥せるべき話はしないはずだ。
「報告を」
勝千代がそう言うと、弥太郎は湯呑みを手にしたままその場で片膝をついた。
「その前に御毒見を。失礼」
そう言って梅干し入りの白湯を軽く口に含む。
「まずは権中納言様の所在だ。我らがどこに向かっているのか、伝わっているだろうか」
「はい。直接口頭でお伝えしました」
よかった。少なくとも弥太郎が出会った時にはご無事だったようだ。
「どちらにいらした? まだ御所近辺か」
「それが」
弥太郎は彼らしくもなくしばし言い淀み、一度湯呑みに視線を戻してから勝千代を見た。
「最後にお会いしたのは下京です。焼け出され傷を負った方々と御一緒でした」
「下京は危ういのではないか?」
「治安は良いです。夜盗などはなりを潜め、昼夜問わず松明を持った武士が巡回をしています」
一体何を言い淀んだのだろう。松永には聞かせられない事か?
再び弥太郎が松永を見たので、さすがに本人もそれに気づき、問い返すように首を傾げる。
それ以外にも報告は多岐に渡り、おおよその状況の把握はできるものの、巧妙に核心には触れないものだった。
途中から松永も気づいたようだが、それについて彼の口から何かを言ってくることはなかった。
弥太郎の報告をかいつまんで言うと、大きく三つ。
ひとつ目。
公方様がお亡くなりになられたのは本当らしい。
公には病死となっているが、腹部を刺されての出血死。最期に脈を取った医者からの情報だから確実だ。
犯人は吉祥殿だという噂が広がっているが、それについて医者は子供の力では無理ではないかと言っているそうだ。
そもそも吉祥殿は、問題の時間には火災中の一条邸にいたのではないかというのが弥太郎の意見。
確かに、ここまで噂が出回ることの方がむしろ怪しく、実際は他者による謀殺の可能性の方が高い気がする。
ふたつ目。
公方様が身罷られて数時間後に、幕府に足利姓を名乗る男が現れた。
自身を足利義宗と名乗り堀越公方の直系だと言っているそうだ。
間違いなく、永興が言っていた「天龍寺派が匿っていた御曹司」だろう。
聞くところによると、額に大きな黒子のある、二十代半ばほどの僧形だそうだ。
ほかならぬ足利家代々の菩提寺である天龍寺派が後見を務める者で、しかも、幕府の中にはその顔、というか黒子に見覚えがある者がいた。
あっという間に幕府内を掌握してしまって、今では抗議の声ひとつ上がらないそうだ。
伊勢氏と六角氏もついたとなれば、さもありなん。
なかなかの恐怖政治ぶりだという。
三つ目。
細川京兆家の兵が京に向かっているそうだ。自領だけではなく、周辺諸国の兵を集め、かなりの大軍に膨れ上がっているという。
かき集めにかき集めて、六角伊勢氏の連合軍の三倍。
これに六角伊勢氏はどう対応するつもりだろう。
幕府を押さえればそれでいいという安易な考えだとは思えない。
勝千代の予想だと、早期に将軍位を授けてもらうか、残りの足利将軍家の血筋を根絶やしにしてしまうか。
阿波の公方さま、そして吉祥殿の御命はおそらく危うい。
勝千代は聞き終えて、ふっと空を見上げた。
若干雲のかかった春の空は、この事態の物々しさなど知らぬげに晴れ渡り、ピカピカと良い陽気だ。
空の上空高くをトンビか鷹かが気持ちよさげに滑空しており、いつかも見たその情景にしばらく見入る。
春はきっと、食べる物にも困らずパートナーを見つけ番う季節なのだろうな。
現実逃避気味にそんな事を考え、つくづく生きるという本能以外の部分、地位や権力を求め抗争に明け暮れる人間がいとわしいと感じる。
「この先の村の庄屋に、足利某について知っている誰かがいるらしい」
勝千代がそういうと、弥太郎が飲み干した湯呑みを受け取りながら頷いた。
「それで今、索敵に出払っている方々が多いのですね」
「興如殿がわざわざ教えた意味を考えると、もっと用心しておきたい」
「わかりました。こちらからも何名か出します」
弥太郎がいれば、少なくとも伏兵があるか否かは確実にわかるだろう。
田所の部下たちが調べてくれて、ほぼ確実に周辺に大きな兵力はないとわかっているが、対忍びになると不安があったのだ。
こちらには一条家の御嫡男および愛姫様がいらっしゃる。これ以上危険な目に遭わせるわけにはいかない。
勝千代は、少し離れた位置で姉弟で手をつないで小川を覗き込んでいる様子を眺めながら、懐に潜めた油紙で包んだ書簡の事を考えていた。
受け取ったものの、実はまだ読んでいない。
庄屋にいる何者かと対面するまでには読むべきだろうし、おそらくは少しでも早い方がいいのは確かだ。
ただ、死者の最期の言葉だと思えば、身構えもする。
ついでに言えば、どうしても、いい話が書かれているとは思えないのだ。




