9-5 山科本願寺外
日が高く昇る前に、山科本願寺を出立することになった。
出ていったと言うべきか、丁重に追い出されたと言うべきか。
正直微妙なところだが、結果は同じなので深くは考えまい。
前日の朝に門をくぐり、丸一日ほどの滞在だった。
あれだけの騒ぎが起こったという事もあり、十分な休息が取れたとは言えないだろうが、少なくとも、本願寺の敷地を出た事への不満は誰からもあがらなかった。
むしろ、何事もなく離れる事が出来て安堵の表情を浮かべていた者が多い。
「おとなしくなさっておられたら、あと数日は休めましたのに」
苦笑しながらそういうのは、本願寺僧侶の永興だ。
勝千代もまた苦笑し、隣を歩く屈強な僧形を見上げた。
「その数日、虎の胃袋の中で無事でいられるのならそうしていましたが」
「いやいや、我らこそ冷や汗ものでございました。よう耐えてくださいましたな」
愛姫の件だな。
なあなあで済ます気はないが、少なくとも、あの場で実淳を切り捨てなかったのは悪くない選択だったと思う。
問答無用に無礼打ちにしていてもおかしくはなかった。
勝千代にとってみれば、生かしておいてこその相手の弱み、死んでしまえば償いもできまいという考えだが、それはこの時代の一般的な考え方からは外れている。
「実淳の処遇はどうなりますか」
「前宗主さまの遺言です、破門は覆りますまい」
随分嬉しそうだな、永興。
軽く眉を上げてみせると、永興は取り繕うように咳払いをして、かなり下の方にある勝千代の頭を上から見下ろした。
「……ここだけの話、宗主さまは憂慮されておられました」
「ご自身が病没した後の専横ですか?」
「容赦なくおっしゃいますな。……ええまあ、具体的には、証如さまへの悪影響をです」
そう思うなら、もう少し育てる環境を考えるべきだった。
見た所あの子は周囲と隔離され過ぎていて、同世代の子供どころか、市井の者の姿を見る機会すらないのではないか。
身の安全を考えての事には違いないだろうし、身分の高い武家とそうは変わらない環境かもしれないが、両親がいない環境でひとりで立つにはあまりにも心もとない。
「お役に立てましたか?」
「拙僧の口からはなんとも。ただ、釘はさせたのではないかと存じます」
坊主の世界も大変だな。
あの場にいて肌で感じた事だが、宗主の座には、単なる権勢欲以上に価値があると考える者も多いだろう。
武家の主君と家臣というような、ざっくりいえば雇用形態のような関係とは違い、まるで宗主は御仏そのもの、言葉を替えれば「現神人」のような扱いだった。
無条件の信仰を受けるという事は、命を預けるに近い。
ずっとああいう環境で育てば、そりゃあ勘違いくんになってしまうのもうなずける。
「御注進とまではいきませんが、ひとつ」
分かれ道に差し掛かり、先を行く逢坂老らが田所をみつけて足を止めた。
勝千代もまたその場で立ち止まり、親切にも見送りに出てくれた男を見上げる。
「証如さまには、すべてつまびらかに、何事も隠さずお話しするべきです」
そしてできれば、分別がつく年齢になるまでもっと市井に近いところで育てるべきだと思うのだが……それは勝千代が口にするべき事ではない。
「お伝えしておきます」
永興は苦笑して、顎をさすりながら何度か頷いた。
「こちらもひとつ」
見送りというよりも、きちんと山科を出ていくか確認したいのかもしれない。
振り返った先には永興の配下のものらしき武装した僧侶たちがいて、それに気を取られているうちに、ふっと永興の顔が側まで寄ってきた。
「前宗主さまと蓮淳さまの御母上は、伊勢氏のご出身です」
耳元でささやかれた言葉に、知らずぎゅっと眉が寄った。
「こちらを」
差し出されたのは、厳重に油紙で包まれた書簡だった。
美しく形式が整えられたものではなく、急遽書かれたものだとわかる。
「宗主さまからです」
受け取るのを躊躇ったのは、寸前の永興の言葉が引っ掛かっているからで、差し出された黄ばんだ包みがまるでババ抜きのババのように見えた。
ひどく廻りくどく、何かの罠に引っかかろうとしているのではないか。
そんな危惧が沸き起こり、無意識のうちに難しい顔になってしまう。
それでも、差し出されたものを受け取らないわけにはいかず、渋々と前に出した手にそっと書簡を握らされた。
「この道を行った先に小さな村がございます。そこの庄屋にお立ち寄りください。興如さまよりくれぐれもと御伝言を承っております」
まさか口封じのための罠でも仕掛けているのではなかろうな。
疑わし気に横目で見ると、にこりと、意外に温和な笑みを返された。
「天龍寺派にはくれぐれもお気を付けください。連中は足利家の御曹司を匿い育て、この時を待っていたのです」
「……それはどういう」
「この先に待つ者が何らかの真実を知っているはずです。……それでは、拙僧はこのあたりで」
引き留めようと、書簡を握ったままの手を伸ばそうとしたが、途中で思い直した。
教えるつもりがあるのなら、しっかりそうとわかるように伝えてきただろう。
つまりは、永興も詳しく知らないか、あるいは知っていても言えないのだ。
「……この書簡にそのことが書かれていますか」
「拙僧如きにはなんとも」
「庄屋で待っているというのは何者ですか」
「ご自分の目でお確かめになり、判断なさってください」
ちょっとぐらいは心づもりをさせてくれてもいいじゃないか。
勝千代の表情からそんな不満を読み取ったのだろう、非常に朗らかな、言っては何だが「清々した」風な笑みを返された。




