9-4 山科本願寺 証如4
「見ないふりしてくださいね」
勝千代がため息交じりにそう言うと、水干姿の愛姫をぽかんとした表情でみていた証如がはっと我に返った。
「あまり外向きにお顔を晒すわけにはいかない御方なので」
「……あれは」
「一条の一姫様です」
立ち止まりそうになった少年を引っ張り、井戸の方へと足を進める。
証如の視線はずっと一方向に固定されたままで、移動しても頭だけがそちらを向いたまままだ。
やがて小道の曲がり角を過ぎ、建物の影に入る。
愛姫が覗き見していた場所が見えなくなって初めて、証如が顔を前に戻した。
「……叔父上はあの方に夜這いを?」
「ええ」
こういう不祥事に、子供だからと耳を塞ぐのは間違いだと思う。
あえて聞かせずとも良い話はあるだろう。だが、この先大勢の門徒を抱える宗主の座に就くのであれば、年齢は免罪符にはならない。
三つ四つの童子とは違い、つたなくとも考える事ができる歳でもある。
考え、判断する。それがこの先証如に求められている事のはずだ。
「京の町が大火に見舞われていることはご存知ですか」
勝千代はしばらく黙って歩き、井戸にたどり着く寸前にそう問いかけた。
「……話には聞いている」
「ここ山科にも大勢が炎を逃れ避難してきています。門前町の家屋を明け渡し、雨風をしのげ火を焚けるよう心遣いをくだされました」
「おじいさまか」
「門徒であるなしではなく、困っている人々に手を差し伸べるなど、簡単にできる事ではありません」
木製の釣瓶を井戸に落とす。
ぼちゃんと反射してくる音がして、縄を引きながらちらりと傍らを見ると、いくらか鼻の穴を膨らませて自慢げな子供がいた。
実際に起こった惨事を目の当たりにした身からすれば、その無邪気さを「何も知らぬ」と思わなくもない。
だがその無知は、大人があえて見せまいとしてきたせいだ。
これから彼が、嫌でも直面していく現実だ。
釣瓶を井戸の縁に置き、備え付けのひしゃくを手に取る。
まずはひと掬いして、証如に手を出すようにと身振りで促した。
「姫君も御屋敷を焼かれ、御弟妹とともに避難されてきました。町は炎に焼かれ、三条大橋は落ち、大勢が死ぬ様子を目の当たりにされたと思います」
存外素直に差し出された両手に数回に分けて水をかけ、ひしゃくを釣瓶に戻してから懐の手ぬぐいを取り出す。
「御父上の権中納言さまとも御母上ともはぐれ、たいそうお心細く思うておられることでしょう」
手ぬぐいは手渡すつもりでいたのだが、御育ちの良い証如は拭いてくれると思ったのか棒立ちだったので、その両手に手ぬぐいを広げて掛けた。
「私はあの御方を、大人の事情に巻き込みたくありません」
「……大人の事情」
勝千代が自身の手にひしゃくの水を掛け、手を洗い始めるのを見て、ようやく証如ものろのろと己で手を拭き始めた。
そのつたない仕草を見るに、普段から一挙手一投足にいたるまで細かな世話を受けて育った御子なのだとわかる。
「証如さまも、十分にお気を付けを」
無知な子のままでずっといれば、都合よく利用しやすいと思われてしまうぞ。
ばたばたばたっと大きな足音がしたのはその時だ。
「なにをしておる!」
その声が聞こえる前に、谷ら護衛が動く様子が見えていたのと、そもそも足音自体がかなり遠くから聞こえていたので、十分な心づもりは出来ていた。
ただ、老人とはいえ大人に突進されるというのは恐ろしいものだ。
思わず身構え、無意識のうちに証如の前に出ていた。
ちなみに手はまだ濡れたまま。
スースーする手を前に出していたのは直垂が濡れるのがいやだったからで、体重のある大人を受け止めようと思っていたわけではない。
「離せ! 離さぬか‼ 証如さまが危ういのだ!」
困惑した様子で蓮淳を羽交い絞めにしているのは、証如の護衛たちだ。
離せと命じられて離そうとしたが、その前に振り回した手で肩やら腕やらを殴られ、そのまま証如の方に向かおうとしているのはさすがに危ういと感じたようだ。
その顔面を見て、誰もが「うわぁ」と思っただろう。
パンパンな腫れは顔全体に広がり、元の容貌がわからないほどの惨状だ。
谷よ、何を投げたんだ。鼻が折れただけには見えないぞ。
「おじいさま」
勝千代の小さな背中の影から、証如が声をあげた。
「大丈夫です。なにもありません」
証如は勝千代の手ぬぐいを握り締めたまま、ドンとその肩にぶつかるようにして前に出てきた。
「こんな貧相な野人の子如きに何が出来ましょう」
その目は一度として勝千代を見ることなく、まっすぐに老僧に駆け寄った。
「そんなことよりも、お怪我の具合はいかがですか? 起き上がってもよいのですか?」
「おお、証如どの」
蓮淳はここまで全速力で駆けてきたとは思えない弱々しい声で孫の名前を呼んだ。
これが本心から証如を気に掛ける故であればいいのだが……
勝千代は側まで来た谷らにちらりと目配せし、何もするなと指示をしておいてから、土井が差し出した手ぬぐいを受け取った。
そろそろここを出る算段をした方がよさそうだ。
宗主の死という混乱が収まってきたら、蓮淳が何らかの手を打ってくる可能性がある。
それに巻き込まれるつもりはなかった。




