9-3 山科本願寺 証如3
「証如さま。お疲れでしょう」
興如がそう言いながら、証如の肩に手を置く。
「白湯でも飲まれ、一服なさっては。もう少ししてからご遺体を本堂へ移します。それまで……」
何とか宥めようとしているが、これだけ激怒していたら無理だろう。
そう思っていたのだが、若干証如の勢いがそがれたのに気づいた。
よく見ると、その目には涙がにじんでいる。
そういえば、この子の父親はすでにこの世にはいないと聞いている。
母親はまだ存命なのだろうか。いや、この場にいないという事は没している可能性はある。
これまで庇護してくれ、可愛がってくれた祖父が亡くなったのだ。
しかもこの若さで喪主として立たなければならないという。
遺族として動揺し、感情が乱れてしまうのもやむを得ないのかもしれない。
しかも誰かがこの子には嘘の情報を与え、誘導しようとした。
それが本当だと信じてしまっても、数え十歳の子供だ、無理もない。
勝千代は興如の言葉にますます顔をゆがめ、泣きそうになっている少年をじっと見た。
誰かこの子に寄り添い、痛みを分け合う事ができる者はいないのだろうか。
証如にとってそれは二人の祖父だったのだろう。
しかし片方はすでに亡く、もう片方も怪我をしてしまった。
その犯人が目の前にいれば、こういう感情を向けられるのも仕方がないのかもしれない。
再び脳裏に、己が死んだときのあの雨の情景が思い浮かび、泣き叫んでいた妻の、もうほとんど思い出せない叫び声が耳にかすかに蘇る。
その命を奪ってしまった車の運転手を、彼女はきっと大声で責めただろう。
たとえば持病の発作などの事情があったとしても、そんなことには構わず、声がかれるまで泣き叫び咎めたはずだ。
こういうことは、理屈ではないのだ。
勝千代は一度ぎゅっと目を閉じてから立ち上がった。
その動きに周囲は動揺したが、気にしない。
「……裏に井戸がございます。冷たい水で顔を洗うのも気分が変わって良いのでは」
証如の泣き顔が一瞬にして般若のごとき面相に変わったが、それもまたスルーする。
「案内いたしましょうか」
「……は? 何故そちと行かねば」
「それはよろしゅうございますな。長く冷たい床に座っておいででしたから、少し身体を解された方が良い」
全否定しようとした証如の言葉を遮ったのは興如だ。
勝千代が何を言おうが敵意を向けて来るばかりだが、興如の言葉には耳を傾けるらしい。
一瞬口ごもり、それでもなお嫌だと言おうとした証如に、勝千代は意図的に煽るような口ぶりで言った。
「怖いのですか?」
ふんと鼻で笑い、お子様らしく見下してやる。
「怖いなら、護衛を山ほど連れてきてもよろしいですよ」
おそらくそんな扱いなど受けたことがなかったのだろう証如は、コロリと簡単に乗ってきた。
「怖いわけがあるか!」
「では参りましょう」
「は?」
勝千代はずんずんと歩を進め、後ずさる証如の側まで近づいた。
護衛の僧侶たちが戸惑ったような態度だったが、構わずに。
「ついでに厠にも案内しますよ」
筋骨隆々な僧侶たちが、不用意に近づいてくる子供を咎めなかったのは、興如が諫めたからもあるが、勝千代があまりにも小柄で、彼らが守るべき証如よりもなお背が低く華奢だったからだろう。
自分でもわかっている。
勝千代はおそらく、実年齢より更に一つ二つ幼く見えるのだ。
こうやってそばで見ると、「小柄な小坊主」に見えた同世代の証如も、勝千代より大きく骨太そうだ。
露骨に身を引いている証如の腕をつかんだ。
無礼なと振り払おうとしたのだと思うが、おそらくその脳裏に過ったのが先程の「怖いのか」という問いかけだろう。
わかりやすく逡巡した証如から目を逸らし、「すぐにもどります」と周囲の誰にともなく向けて言った。
「ごゆっくり行ってらっしゃいませ」
にこりと笑ってそう答えたのは、興如だ。
「おい! 離せ!!」
しばらくは腕を引かれるまま歩いていた証如だが、やがて我に返った様子で文句を言い始めた。
ブンブン手を振って勝千代を振り払おうとして、誤ってその手が勝千代の右目を掠め、そこで怯むあたり性根は悪い子ではないのかもしれない。
「すぐそこですよ」
護衛の僧侶たちは、数歩離れた距離をついてきている。
相変わらずどうすればいいのかわからない、という表情をしていて、勝千代に対しては警戒心よりは不安を抱いているようだ。
勝千代自身の護衛は更にそれよりも遠くだ。いや違うな、距離的には遠いが、何かが起これば一気に詰めることができる配置にいる。
「いつまで掴んでいる、手を離せ無礼者!」
部屋を出て幾らもしないうちに、子犬が唸るような口調でそう言われ、勝千代は軽く肩をすくめた。
「離したら逃げるじゃないですか」
「にっ、逃げるわけなかろう!」
本気で嫌がっているようなので、一瞬離そうとしてみたのだが、即座に距離を取ろうとされたので再度掴みなおした。
「おい!」
「私は『おい』ではございません、福島勝千代と申します」
「誰もそんな事は聞いておらぬ!」
「まあまあ、井戸はあそこですよ」
井戸はもちろん屋外にある。一度中庭に降りなければならない。この屋敷は小ぶりながらもきちんとした間取りになっていて、廊下から中庭に降りる事が出来る場所は限られていて、そこまで行くのにしばらく歩かなければならない。
勝千代が指さしたのは、建物の裏庭に設置された井戸だ。
厨などともつながっているので、普通身分ある者が来るようなところではない。
ちなみに勝千代は厠の帰りには必ず寄るので、そのあたりの感覚が常人とは少し違う。
「井戸へ行くのではないのか?」
「厠が先です。用を済ませてから手を洗いに行きましょう」
ぶつぶつと口の中で文句を言いつつも、抵抗せずについてくるあたり、証如も厠に行きたかったのかもしれない。
大人はあまり考えてくれないが、子供はトイレが近いものなんだよ。膀胱が小さいからね。
それほどの広さでもない屋敷を並んで歩き、片方は文句と罵声ばかりという、会話にもならないやり取りしかなかったが、一緒に厠に行くという行為は、証如にとってかなり思うところがあったらしい。
お互いに用を済ませ、そのまま中庭を通り 井戸へと続く小道を通る。
途中から証如の口数は減り、何故か親の仇を睨むように己の腕をつかむ勝千代の手を見ていた。
「……おい」
「『おい』ではございません、福島勝千代です」
もう幾度目かもわからない返答を、いくらかぞんざいに返した勝千代だが、ふと視界の片隅を掠めたものに口を閉ざした。
見えているのは白っぽい水色の水干。
柱の陰に隠れるようにしてこちらを見ているが……丸見えである。




