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春雷記  作者:
京都編

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8-6 山科本願寺6

「我々は夜明けを待ってここから去らせていただきます」

 勝千代がそう言うと、興如が何かを言いかけて黙った。

「捕えている者を解放してもよいですが、その場合は、山科本願寺そのものに権中納言様の怒りが向くとお考え置きください」

「……小童め」

 聞こえたぞ、老僧B。

 勝千代は明確な敵意を向けてきたその老僧にむかってうっそりと笑みを向けた。

「このような事になり残念です。四年前にも思いましたが、本願寺とは相いれぬようです」

「まあまあ、そんな事言わんと、落ち着いて」

 ニコニコ笑顔とのんびりした口調でそう言って、宗主さまは「よっこらしょと」腰を持ち上げた。

「実淳のことは、こちらできっちり『説教』するので、勘弁してくれんやろうか」

 そう言いながら、一歩。

 老僧がゆっくりと足を踏み出すのを、皆が見ていた。


 ぐらり。

 その上半身がかしぐ。

 はっと鋭く息を飲んだのは誰だったか。

「宗主!」

 興如が大声を上げて跳ねあがるように席を立つのと、側にいた老僧Bが支えるのとは同時だった。


 失神デモンストレーションか。

 勝千代は最初、白けた気分で混乱の様を見ていたのだが、どうやら違うらしい。

 倒れたのが初めてでないのは、お付きの者たちが薬を所持していたことからもわかる。

 白湯もなく口の中に丸薬を押し込まれ、力なくむせるその顔色は、まるで死人のように真っ白だった。


「毒を盛ったな!」

 宗主さまを掻き抱いた老僧Bが、何を思ったか勝千代を睨んでそんな事を叫ぶ。

「おのれ、兄上を!」

 この部屋に限ってだが、僧侶の数が多く、しかも屈強な護衛役がその大半を占めていた。

 その者たちが一斉に勝千代の方を見て、敵意をむき出しには……ならなかった。

 何故なら、背後に小次郎殿ひとりを従え、護衛も少し間を開けて二人だけ。

 要するに、部屋の中央にちょこんと座っている非力で小柄な子供なのだ。

 そもそも、身体への接触どころか、距離を詰める事すらなかったし、この部屋で飲み物に口をつけるようなこともなかった。

 つまり毒殺など不可能だ。


 誰もの頭にその結論が回りきるまで待って、勝千代は冷ややかに口を開いた。

「不愉快ですね」

 宗主さまが苦しそうに老僧Bの袖を引いているぞ。

 それに見向きもしないってどうなの。兄弟じゃないの? 

「このような時にまで陰謀詭計ですか」

 その言葉にハッと我に返った奴はまだいい。

 そわそわと身じろぎし、老僧Bをちらちら見ている奴。どういうつもりだ? 宗主が倒れ苦しんでいるのに何をしている?

「私がこの寺に来て一日にもならず、更には宗主さまに毒を含ませる手段も動機もありはしないと明言しておきます」

「動機ならあるであろう! 今回の件を恨みに思い……」

「恨みに? いいえ。実行犯は押さえておりますし」

 そもそも、今ここで宗主さまが死んだとしても、責任の所在が移るだけだ。

 冷静にそう言い返した勝千代に、顔をゆがめて反論しようとする老僧B。

「まだ話し合いの結論もついておらず、むしろどう手を尽くし謝罪するべきか悩むべきところを……今度は毒殺犯にでっちあげですか」

 そちらがそのつもりならいいとも。こちらも毒を注入してやろう。

「疑心」という名の特大級に厄介な毒だ。

 

「言わせていただきますが、持病のおありの方が倒れられたのを見て『毒殺』と言い放つ御坊の方に不信感がありますね」

 その場にいる誰もがその勝千代の意図に気づいてはいなかった。

 心あるものは宗主に掛かりきりで、中途半端なものは老僧Bの顔色を窺い、憎悪の目でこちらを睨んでいるのは老僧Bの派閥だろう。

 だが当の老僧Bのほうには刺さる言葉であったらしい。

 表情がすごい事になっている。

「お心当たりでも?」

「っ」

 顔色ぐらい取り繕えよ。


「……今何か隠されましたね」

 勝千代は更に追撃の構えで言葉を続けた。

「御坊、宗主さまにまさか毒を? 御兄弟なのに? ……いえ、御兄弟だからですか?」

 その場に一瞬、いや数秒間、誰も何も喋らない重い沈黙が広がった。

 今宗主さまにもっとも近いのは老僧Bだ。

 勝千代と違って、物理的に毒を盛ることができる位置関係だ。

「勝千代殿」

 勝千代のしていることに真っ先に気づいたのは興如だった。

 だが遅い。

 疑心という毒がクリティカルに僧侶たちの間に広がったのが分かる。


 興如が懇願するように勝千代を見るが、まだまだ、こんなもので手を緩めるつもりはない。

「むしろ……動機がおありなのは御坊のほうでは?」

 今回の一件を興如がどうおさめるつもりでいたかは不明だ。純粋に実淳を排除したいだけならば、いいとも、協力する。

 だがそれを、本願寺派には無傷なままかなえられるとは思わないで欲しい。

 あんな変態を「さま」付きで呼び罪にも問えないような宗派が、弱者のためにあるものか。


「その者を捕えよ! 仏敵ぞ!」

 顔を赤黒くした老僧Bが宗主さまを腕で支えながら叫んだ。

 まっすぐ伸びた手が勝千代を指さし、覚えのある悪意、殺意交じりの怒りが付きつけられる。

 おいおい、今そんな事をしている場合なのか?

 苦しそうな宗主さまを医者に見せたほうがいいのでは?

「そちらこそ、実の兄に毒を盛るなど……権力というものはそれほど美味ですか」

「おのれ」

 実際の所、宗主さまはご病気なのだと思う。

 長く毒を盛られ続けたとか、そういう理由によるものかはわからないが、倒れるのもこれが初めてではないようだし、随分とお身体を悪くしているのだろう。

 つまり前々からそういう予兆があったことは誰もが知っていて、昨日今日ここへ来たばかりの勝千代が毒を盛ったなどというのは荒唐無稽な話だ。

 むしろ、老僧Bが権力の欲に負けて兄を殺そうとしていると考える方が納得がいく。


 老僧Bは、己の命令に周囲が動かなかった事に気づき息を荒げた。

 怒りで赤黒かった顔が強張り、徐々に血の気が引いていく。

 それがまた、図星を刺されて動揺したようにしか見えない。 

 微妙な沈黙が流れた。

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福島勝千代一代記
「冬嵐記3」
モーニングスターブックスさまより
2月21日発売です

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― 新着の感想 ―
[良い点]  えっぐ。作品当時数え九つ(満年齢だと7~8歳)の姫様を酒飲ませて手つきにし、一条家と力ずくで結ぼうとする本願寺派がえぐ過ぎるわぁ。 [気になる点] >敵をむき出しには……ならなかった。 …
[気になる点] 絡んでくる人、馬鹿ばっかですな
[一言]  孫の九条家猶子の件が吹っ飛びかかってるのに何してんだか、全力で「無かった事」にしなきゃならんはず。  ああ、無かった事にする為の言動が逆に働いちゃってるのね。
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