8-2 山科本願寺2
何事もないというのはありがたいものだ。
勝千代は夕刻までゆっくりと過ごし、小坊主たちにより運ばれてきた朱塗りの膳で豪華な精進料理に舌鼓を打った。
身体を清める湯ももらえたし、歯を磨く塩を用意するほどの気の使いようだ。
いやぁ、至れり尽くせり。これで温泉でもあれば、観光地に来たと言ってもいいかもしれない。
疲れ切っていた者たちは、ゆっくり休めて顔色もよく、警戒していた者たちも美味そうに膳をつついている。
夢にまで見たゴマ豆腐。甘く煮られた豆。若竹と山菜の煮物。
……今襲撃を受けたら全滅かもしれないな。
頭の片隅でしきりに警報が鳴っているが、食欲に負けた。
久々に髪を洗い、三浦兄に髪を結いなおしてもらっていると、パタパタと廊下を駆けてくる音がした。子供の足音だ。
護衛の誰も警戒した様子がないところを見ると、愛姫だろうか。
勝千代の予想通り、半日ですっかり元気になった愛姫が真っ赤な顔をして部屋に駆け込んできた。
その顔は真っ赤で、目じりが吊り上がり、唇がふるふると震えている。
「どうかされましたか」
予想もしていなかった彼女の表情に、勝千代もまた顔を厳しくした。
「ここはいやや!」
そして大きく息を吸い込むと、開口一番、愛姫は大声でそう叫んだ。
赤い顔は、喜んでいるわけでも照れているわけでも恥ずかしがっているわけでもなく、激怒してるのだ。
冷静にそう分析していると、また廊下を足早に駆けてくる音がする。
男物の狩衣を着た古参の女房殿は、両手を前に差し出して愛姫に駆け寄った。
「お怪我はございませぬか?!」
怪我をするような状況があったのか?
聞けば、この屋敷の様子を見に来た僧侶に、ひどく無礼な真似をされたのだという。
興如からの好待遇は、前夜に置かれていた状況に比べると天と地ほどの差がある。
僧侶であろうと人間なので、相手が摂家の姫君だと知らなければ、待遇が良すぎる相手へ思うところがあるのかもしれない。
特に愛姫は活発な御気性なので、普段通り気軽に屋敷内を歩き回っていたのだろう。
ここは一条邸ではない。相手が僧侶であれば侵入を拒むことも難しい。
だが無礼な真似といってもどういうものだろう。公家の御姫様にとっては無礼極まりなくても、身分が低いものにとってはそんなつもりはなかった可能性も大いにある。
「……姫様のお髪にお触れになり、かわゆい子や、嫁にしてやろうと」
顔を半分袖で隠した女房殿の表情にあるのは嫌悪だ。
それはそうだ。令和の時代であっても、初対面の女性の髪に触れるなど失礼極まりない。
頭の中では、マセた小坊主にちょっかいを掛けられたのだろう、程度の事を想像していた。
だが、普段はあまり表情を変えない一条家の武士たちですらかなりピリピリとしていたので、詳しく話を聞いてみると……勝千代も、周辺にいた側付きたちも、皆そろって険しい表情になってしまった。
何しろ相手が、三十がらみの、権中納言様さまよりも年上の僧侶だというのだ。
「あにさまも気いつけて」
「いや私は男子ですし」
男色が珍しくない時代、しかも僧侶たちにはそういう事も多いと聞くが、勝千代のようにガッチガチに護衛を置いている子供に手出しをしようとはしないだろう。
そんな楽観に、愛姫も女房殿もきっぱりと首を左右に振る。
なんでも、最初に声を掛けてきたときは、水干姿の愛姫を男の子だと思っていたというのだ。もちろん周囲には一条家の護衛たちが複数名ついていたとの注釈もあった。
いや、ドン引き。
三十歳にもなる成人男子が? まだ十歳にもならない子供に?
しかも男児女児どちらでもいいという節操のなさ。
まさか……万千代様にまで食指を伸ばしはしないよな?
「興如様に話しておきましょう」
これは、護衛云々以前の問題だ。
相手が位の高い僧であれば、拒否できない者もいるのではないか。
「姫様も、気楽に歩き回ってはなりません。ここは一条の御屋敷ではない。どこに危ない者がいるやもしれません」
「気軽に歩き回ってなど居りませぬ!」
ぷんすかと頬を膨らませた愛姫いわく、別部屋で眠っている弟妹の顔を見に行った帰り、つまりは屋敷の相当奥での出来事だった。
つまりは、そこまでやすやすとその変態野郎が入り込めたという事だ。
護衛は誰も止めなかったのか? ……いや、僧侶だというだけで厳重な警備をすり抜けてしまったのだろう。
激怒している女性は、年齢関係なくややこしいものだ。勝千代は「ええ、はい」という返答を繰り返すBOTのようになりながら、愛姫の怒りを傾聴した。
いわく、髪だけではなく背中に触れられただの、息が掛かるほど顔を近づけられただの、何も知らない者でも「マジで犯罪、ギルティ」と言いたくなる内容だった。
姫君だけではなく、一条家の者皆が怒り心頭だが、勝千代自身とその周辺も次第にこめかみに青筋が浮いてくる。
「……気がかりな事が」
「年増は要らぬ」と失礼極まりない事を言われたという女房殿だが、その表情にあるのは怒りよりも嫌悪、さらには不安の色だった。
「去り際に、夜が楽しみだの……と」
え? 夜這いでもするつもり?
まさかこれだけの大人数が守っているのにそんな事は起こらないだろう、という願いはむなしく散った。
夜中とも言えない宵の入り。
周囲が暗くなってそれほど経たないうちに、姫君が休む部屋に忍んで来る者がいたのだ。




