8-1 山科本願寺
「いや、大きゅうなられた」
人気が少ない東門の前まで迎えに出て、そういって両手を広げて歓迎してくれたのは、ひと目で高僧とわかる身なりの興如だった。
この人の旅路での質素な装いを知っているだけに、金ぴかとまではいわずとも、重そうな袈裟をつけた姿に少し感心する。
そうやって身なりを改めると、なるほど、宗主の懐刀と呼ばれるだけのことはある。
それなりどころか、どこからどう見ても有難い御言葉を下さりそうな高僧だ。
「お久しぶりにございます」
勝千代は丁寧に頭を下げた。
興如の目じりに深いしわが刻まれ、更に数歩近づいてそっと肩に手を置かれた。
「いや、大変な目に遭われましたな」
「……ええまあ」
「ゆっくりなさると良い。たいそうお疲れのようだ」
意味ありげに顔を覗き込まれて、苦笑する。
興如は頑なに勝千代の背後を見ないが、不安そうに立っている女房殿と、その腕に抱かれている子供たちの素性について何も思わないわけがない。
これが、何も聞かないという意思表示だといいのだが。
「ご迷惑をおかけしたくありません。しばらく軒先を貸していただけるだけで有難いです」
堀の外にある屋敷でいいのだ。いや屋敷でなくとも構わない。雨風がしのげ、数日身体を休める事ができれば。
むしろこの先の、堅牢な門の先に進むことのほうにためらいがある。
「何と水臭い」
呵々と笑うその声は明朗で、明け方に見た軍勢も、永興ら物騒な坊さん集団のことも、死んでしまった大勢も、なにもかも夢だったのではと思いそうになる。
だが、ここではない門の周りにひしめく、大勢の避難民の声が現実を告げている。
山科は、巨大な堀と防護壁で覆われた要塞都市だった。
上京よりも高く積まれた土塁は見上げるほどの高さで、その上に更に白い壁が立っている。堀も深く、幅は十メートル以上ありそうだ。
がっちりと土塁で四方を囲む威容は、寺というよりも、さながら大名の主城のようだった。いや、城そのものといってもいい。
京からこれほど近い場所に、こんなものがあっていいのだろうか。
今の情勢にも、この先の情勢にも詳しくはないが、確か山科本願寺は焼き討ちにあって拠点を移したと聞いた気がする。
この堅牢な城を、さぞ邪魔に思った者がいるのだろう。
勝千代は、その焼き討ちが今この時でない事を願いながら、ちらりと背後を振り返った。
不安そうな女房殿と小次郎殿に頷き返し、中に入るよう身振りで促す。
本当であれば、山科を迂回して伏見まで行くつもりでいた。
伏見にある日向屋の店で身を隠し、権中納言様からの指示を待つ予定だったのだ。
伏見であれば京から適度な距離があり、そこから大阪方面に街道も伸びているし、水運を用いての移動も可能だ。
ここ山科は、状況を考えれば身をひそめるには危う過ぎる。
一同を受け入れ、大きな門がゆっくりと閉ざされる。
門の周辺を警護するのは、一見すると僧侶ではなく武士だった。違和感と危機感を同時に覚えたが、口にはしない。
「避難民を受け入れておいでなのですね」
その不安を相手に気づかれないように表情を引き締め、意図的に別の話題を振る。
興如は「ええ」と頷き、好々爺の表情で微笑んだ。
「土塁の外側になりますが、雨風をしのげる家屋を開放しております」
「我らもそちらで良かったのですが」
「とんでもない。駿府殿にまたお叱りを受けてしまいます」
そういえば、朝比奈の奥方と鏡如の件で駿府に行った後、かなりの問題発言をして揉めたと聞いた。丁度勝千代が長く寝込んでいた時期の事だ。
「御屋形さまはそのような事で御怒りにはなりませんよ」
「いえいえ、臥龍の尾は踏まぬに限ります」
臥龍か。
ちらりと脳裏に過った御屋形様の顔は、病で青ざめ、やつれたものだ。
軽い発作で倒れて早四年。最近は身体を起こせない日も多いと聞く。症状から推察するに、脳梗塞か脳卒中かそのあたりではないか。
神経系に関する問題は、さすがにどうしようもない。
「申し訳ございませぬ、余計な事を申しましたな」
表情を暗くした勝千代に察するものがあったのだろう、謝罪されて「いいえ」と首を振る。
田所は念のための別行動をとったが、それでも四十人近い大所帯である。
用意されたのは比較的大きな建物で、一番いい部屋は畳敷きだった。
何も言わずとも、勝千代の連れがどういう立場の御子達か察してくれたのだろう。
屋敷に案内するのも興如が手ずからという好待遇ぶりだった。
一条邸ほどの煌びやかさはないが、一般的な公家屋敷並みにはきちんとした部屋に通され、安堵のあまり気が抜けた表情の女房殿たち。
対照的に、警戒心を拭いきれない小次郎殿を含めた武家たち。
勝千代も内心では後者だったが、にこやかな興如にずっと話しかけられているので、表面上はそういう感情は押込めている。
「勝千代殿に会わせたい御方がいらっしゃるのですが」
久々に囲碁でもとさりげなく別室に呼ばれ、向かい合って座ってそれほど経たないうちに、案の定、そんな事を言われた。
何か話があるのだろうとは思っていた。
この多忙であろう時に長時間客の側にいること自体おかしなことだ。
「はい。どなたでしょう」
身に危険があるとか、そんな差し迫った事ではない気はする。だが勝千代のその手の予感は極めて怪しいものだ。
体力的に限界な女性陣のために休息を優先させたが、できるだけ早く、厄介事に巻き込まれないうちに、この地を去る方がいいだろう。
勝千代の逃げ腰を察したわけではないだろうが、興如の目じりがふいっと垂れた。
「明日にもお連れします」
なんだろう。……怖いぞ。




