7-3 京郊外3
「姫様!」
男装の女房殿が水干姿の姫をひしと抱きしめ、初めてその頬に涙が伝った。
愛姫もぎゅうと抱き着き返し、ひっくひっくと嗚咽を漏らす。
「ねぇね」
二人に挟まれた万千代様も耐えかねたように姉を呼び、だあっと涙を頬に伝わせた。
「本当になんとお礼を申し上げれば……」
もらい泣きをしながら震える京訛りでそう言うのは土居小次郎殿だ。
どうやら川の浅瀬を強引に渡って来たらしく、その下半身はしとどに濡れそぼっている。
愛姫は着物の裾すら濡らしていないので、肩車か抱きかかえてか負ぶってか、大人の手で運ばれたのだろう。
こうやって見ると、幼い子供連れはなんとか無事に京を脱出することができたようだ。
重量の軽い子供が相手なので、抱えて運ぶという手段がとれたからだと思う。
白玉殿と東雲のグループが最も人数も多く、もっとも脱出に手間取るだろうということはわかっていた。
できるだけ追手の目を引き受けたつもりでいるが、それがどこまで有効だったか。
「……その御言葉は、もう少し後で」
ちらりと見上げた月は、すでに西の方にある。
体感的には深夜をまわり、明け方の方が近いだろう。
明るくなる前に、ここを引き払った方がいい。
「まずは濡れている着物をなんとかしましょう。いくらか替えがあります」
「いいえ、早う移動したほうが」
季節は春だが、まだ肌寒さがある。川の水も冷たかっただろう。
この時代は、風邪ひとつが命取りになりかねない。
案の定、ぶるりと震えた小次郎殿の唇は青白かった。
「着替えの時間ぐらいはあります。こちらは出立の準備をしておきますので、お急ぎください」
なおも何かを言おうとした小次郎殿に、軽く首を振って着替えの一式を受け取らせる。
「着替えて、一杯の白湯を。姫君にも休息が必要でしょう」
「ですが」
「周辺の警備についてはご安心を。何人たりとも近づけはしませぬ」
休息といっても、長い時間はとれない。
せいぜい四半刻。三十分程度が限界だ。
再び舞い戻った崩れ落ちそうな家屋で、灰をかぶせていた囲炉裏に火をつけた。
まだ熾火が残っていたらしく、枯れ枝をくべるとあっという間に炎は大きくなり、ほんのわずかだが、温もりが広がる。
その明かりの下で見る愛姫の顔色は真っ白で、水に浸かってはいなくても相当に堪えたのだとわかる。
それはそうだ。これまで生きてきた中で、おそらくこんな風に屋外で夜を明かすことすら初めてだろう。
だが長く休ませてあげることはできない。
「ゆっくり飲んでください。それを飲み終えたら、出立します」
毒見の時間を置くことすらできなかった。
だがその分、姫君の両手で包まれた湯呑みからは湯気が立っている。
これで少しでも身体を温めてほしい。
「若」
退路の確保を頼んでいた田所が、勝千代を呼ぶ。
何かあったのかと立ち上がろうとすると、袴の裾をぎゅっと握られた。
右から愛姫が、左から万千代様が。
白玉殿そっくりな目の形ですがるように見上げられ、「大丈夫ですよ」と安心させるように笑顔を浮かべる。
「すぐに戻ります」
二人の手が渋々と離れるまで、辛抱強く待たなければならなかった。
「……何だ」
にやにやと嫌な感じで笑っている田所に、胡乱な目を向ける。
こんな深刻な状況下で、何故そんな顔をする。
「話があるのではないのか」
重ねて尋ねてようやく、思い出したように咳払いした。
「あと数刻もせぬうちに六角軍がこのあたりを通ります。かなりの大軍です。見つかれば厄介な事になります」
六角家は近江守護だ。京の隣、琵琶湖の周辺を勢力下においている。
武力をもって京を押さえるのであれば、申し分のない地の利がある。
それでは、本格的に京を支配下に置くために兵を増員するのか。
「伊勢あるいは北条軍は?」
「伊勢の指物を着けた兵がうろついていますが、多くはありません。北条は見かけませんね」
勝千代はこくりと頷き、間近にある田所弟の日焼けした顔を見上げた。
「できるだけ早く移動を始める。退路に問題がないか目を配れ。塞ぎそうであれば報告を。必要なら排除する」
「……はっ」
田所は刀の柄をトンと叩き、軽く頭を下げ了承の合図をした。
福島家の者たちで、合流を果たせていない者が三分の一ほどいる。
囮として西と北へ向かった者たちだ。
腕が立つ男たちなので、それほど心配していない。
ただ、ひと目で武家だとわかるので、京を支配しようとしている兵たちと衝突しないかは気がかりだった。
京には実に雑多な武家たちが集まっているので、誰がどこの家のものかの把握は難しいとは思う。京を武力で支配しようとした場合、そういう者たちが邪魔になるのは確かで、真っ先に警戒対象にされるだろう。
あと聞き捨てられない話として、京にいる多くの者が、これを六角や伊勢の謀反だとはとらえていないという情報もあった。
上京の多くを焼き尽くす大火のほうに意識が向いていて、物々しい兵の配備をむしろ歓迎しているというのだ。
京を守れない公方への失望と、守ろうとしている六角家や伊勢家への信望。
もともと幕府への評価が底辺を這っていたということもあり、戦装束の武士たちを歓声をあげ迎え入れているとか。
マジか。
結び文による報告に目を通し終え、ため息をつく。
「よくない知らせですか」
そう声を掛けてきたのは松永青年だ。
この男についても、悩ましい問題はある。
「……何か?」
じっとその顔を見ていると、首を傾けて問い返された。
「公方様がお亡くなりになられたという噂が京にひろがっているそうです」
勝千代の言葉を聞いて、松永青年の顔が強張った。
幕府とは縁遠い、むしろお近づきになりたくないと思っていた勝千代でさえ、衝撃的だと感じる内容だ。
続けて書かれていた内容はもっと深刻で、手に掛けたのが「弟君」だというのだ。
噂だ。真偽のほどを確かめたわけではない。
だが、半日前までその「弟君」についていた松永にはショックだろう。
手渡しした文を焚火の明かりにかざしながら目を通し、見る見るうちに青ざめていくその顔を見上げながら、巻き込まれずに済んでむしろよかったという言葉を胸の内に飲み込んだ。




