6-5 三条大橋 脱出5
ひらひらと舞う薄紅色の衣が、垣根の向こうに消えるまで見送った。
正直な話、置いて行かれても困る。
そもそも弥太郎がいる時点で、土地勘がないからどうこうという事はない。
もちろん松永青年のほうが長年この地に住んでいるから、知人は多いのだろうが、この混乱の状況でそれがどれだけの役に立つだろう。
むしろ、いらぬ事まで聞かれてはと気兼ねなく話ができない事の方が厄介だ。
ちらりと見上げた先の松永は、変わらずじっと勝千代を観察していた。
その表情からは、何を考えているのか読み取れない。
悪い気質ではないように見える。頭もよさそうだ。
ただ、この時代の幕府の役人というだけで、要警戒の条件を満たしてしまう。
立ち上がった彼の背後で、収めた刀の柄を弄んでいるのは谷だ。
弥太郎も、瞬きひとつせずこちらを見ている。
合図ひとつで、簡単にその息の根を止める事が出来るだろう。
勝千代は深く溜息をついた。
己がここでその道を選べないということはわかっていた。
それが甘さだと理解しつつも、まだ命というものに理想や未来があると感じているからだ。
「置いて行くべきです」
谷の進言はもっともだ。勝千代もそう思う。
松永はさっと後方の二人に目を向けてから、改めて勝千代を見つめた。
「お役に立てます」
きっぱりと自信ありげにそう言い切る姿からは、地雷臭がプンプンと漂ってくる。
役に立つ人材は足りていると言ってやりたかった。
しかし、やけに頭の巡りがよさそうなこの青年を放置しておくと、逆によくない事が起こりそうな気がするのだ。
勝千代は再び長く息を吐いた。
「……ついてくることは止めません。ただし、怪しい動きをしたとこちらが感じた場合、即座にその首が飛ぶと覚えておいてください」
「承知」
いやだから、どうしていちいちそう自信ありげなんだ。
右か左かの些細な選択ひとつにすら大いに迷う勝千代にしてみると、松永のその迷いのなさは無謀にしか見えなかった。
何度も言うが、この場所に長居はできない。
風向き的に炎は東側に広がりそうなのだが、ここは一条邸からみるとその風下にあたる。遠からず炎が来る可能性は高く、向かうならそれをよけての南か北。
ただの避難民であれば、できるだけ炎からは遠く、かつ人の多い場所を目指すべきだろう。
だが勝千代には目的地があり、すべての囮も、避難した方々も、最終的にはそこに向かう、あるいは連絡なりを寄こすようにと指針を固めていた。
特別隠すような場所ではなく、今からまっすぐにそこへ向かっても、問題があるとは思わない。
ただやはり、問題は松永だった。
「鴨川を渡るのですか」
人波に逆らう程ではないが、若干道なりではない経路を辿っていると、ふとそう確信めいた質問をされた。
煩わしげな顔を隠そうともしない谷と、しれっと聞き流す態の弥太郎と。
対照的なその反応に苦笑しつつ、大人な返答ができたのは、最年少の勝千代だけだった。
「ええ。川が火の手を遮ってくれるでしょう」
「それでしたら、知り合いの」
「お気遣いなく」
勝千代は軽く首を振り、松永の言葉を遮った。
おそらくは渡し舟の口利きをしようとしたのだろう。
「ですが、大橋には見張りも多いはずです」
「探しているのは私たちではないので」
ちなみに、今の季節はそれほど水深もなく浅瀬もあるので、水を掻き分け渡る者も多いだろう。それらすべてにいちいち目を配ることなど不可能だから、橋の見張りに重点を置いてはいないはずだ。
問題はその先。
京の町から外へ向かう道沿いに、かなり厳重な検問があると聞いている。
勝千代はともかく、白玉殿らに通り抜けることは可能だろうか。
一応、避難先には知らせを送っていて、相手からも受け入れを承諾してもらえているが、この混乱でどこまでそれが当てにできるかはわからなかった。
できれば方々には上京にとどまっていただいて、夜が明け安全になってからの避難が望ましいのだが、おそらくは今が最もリスクが少ない。
火災で屋敷を燃やされた公家たちの大勢が避難中で、そこに方々が混じってもたいして人目を引かないからだ。
時折、馬や輿に乗った公家の方々を追い越したが、その周囲を役人たちが取り囲み、不躾に尋問しているのを見かける。
公家女性は家族以外にその素顔を晒すことが稀なので、白玉殿らの正体が即座に見破られることはないと思うが、それでも、あの非礼さには顔を顰めたくなる。
こういうことが起こり得ると考えて、徒歩での脱出を勧めたのだが、黙々と歩いていると、やんごとなき方々にとってはこの距離もネックになるだろうという不安が拭えなかった。
無事たどり着いてくださるだろうか。
何事もなく合流できるだろうか。
東雲と鶸ら、あとは一条家の護衛もついているので、問題はないと信じたい。
ちなみに、勝千代自身の護衛と側付きらは、それぞれ別方向への囮役として、谷同様女物の衣を頭からかぶって追手を引き付けている。
彼らについては、まったく何の心配もしていない。
「鴨川です」
松永にそう言われて顔を上げると、ひと際人が大勢集まっている場所があって、どうやらその先が三条大橋のようだった
人が多すぎるせいか、橋を渡る人数規制があるらしく、たもとで役人が声を枯らして何やら叫んでいる。
勝千代はちらりと松永に目を向けた。
この中でもっとも顔を知られているのは彼だ。
しかし顔を隠すことなく、堂々と前を向いていた。
確かに顔を背けたり隠したりするほうが目立つだろう。だがそれは、知り合いがいないということが大前提だ。
順番が来て、橋を通りながら、どうしてそこまで自信があるのか問い詰めたくなってきた。
ふと頭をよぎったのが、見逃すよう話をつけているのではないか、ということだ。
……いや、連れが勝千代程度では、そんな事をする価値はない。
どうにもこの青年を信じ切ることが出来ず、どうしたものかと考えていると、橋の向こう、対岸側から独特な掛け声のようなものが聞こえてきた。
更には、橋の上の人々が先の方から左右に分かれていく。
何か不測の事態が起こったのか。
さっと、松永の背中が勝千代の視界を覆った。




