興津(~61-8)
興津はドクドクと流れる血を抑えながら、低く呻いた。
油断していた。まさかそんな事はないと思っていた。
曳馬城の奥、御屋形様に報告に上がる前に、ここでしばし待つようにと言われ、何の疑問も抱かなかった。
刻限も刻限だ、日は長くなっているとはいえすでに周囲は真っ暗で、病身の御屋形様がすでにお休みになっていてもおかしなことはない。
圧倒的な大勝という土産話を持ち帰り、気分が高揚していたということもある。
まさかこんなところ……自身の主城で刺客に囲まれるとは、興津はもとよりその護衛たちも思いもしていなかったのだ。
「殿っ、道を開きます故御屋形様をっ」
そう言って、刺客の前に立ちふさがるのは興津の従弟だ。
その足元ではすでに、年若い甥が死んでいる。
なんてことだ。
三万の兵を退けたのだぞ! せっかく生き残った命を、このような所で……
ああ、なにもかも興津が悪い。
不穏な状況だということは、誰よりもよくわかっているべきだったのに。
「止血を」
刺客の手から逃れたのは奇跡に近い。
その多くが北条兵で、手練れも多かった。
「血がとまりませぬ」
「構わぬ故きつく縛れ」
興津は厳しい口調でそう言った。
躊躇うような腹心の顔に鼻先を寄せ、「其方は退き口を作れ」と小声で命じる。
「井戸の抜け道がまだ使えよう」
かつて三河侵攻で使われた井戸の抜け道は、まだ塞いでいなかった。
城の改修は急務だったが、やはり先立つものの都合もあって、優先順位の兼ね合いで後回しにしていたのが良かった。
「御屋形様をお連れする。井戸の先に馬を」
興津の命など、いくらでも代わりがいる。
だが御屋形様は駄目だ。
今、御屋形様を失えば、今川家は乱れる。
「囮を頼むやもしれぬ」
三十年苦楽を共にしてきた男に、厳しい決断を告げる。
「あるいは、わしが戻らぬとあれば、三河に急ぎ戻り勝千代様にお伝えせよ」
興津の腕をギュウギュウと縛り付けていた腹心は、決意を込めた表情で「はい」と頷いた。
身を隠していた櫓の周囲に、大勢の気配がする。
追っ手に気づかれたか。
「……行け。先に行って馬の用意をしておけ」
「殿」
「そのような顔をするな。今生の別れという訳ではない。必ず御屋形様をお連れする」
興津は、井戸の方へ腹心を押しやって、数人の護衛とともに奥へ向かって駆けた。
その道中に連れはすべて倒れ、最後の坂を登り切る前に、興津自身も大勢に取り囲まれてしまった。
もはやここまでか。
念のために信頼できる友に先に行かせておいてよかった。
少なくとも、勝千代様にこのことを知らせてくれるはず。
あの御方なら必ず御屋形様をお救いできる。
「何をしておる! はように始末せよ‼」
聞き覚えのある声に、血走った目を巡らせる。
そしてその男の顔を、瞬きするのも惜しいとばかりに睨み据えた。
「……おのれっ!」
「無礼者めが! 若殿の御顔が目に入らぬのか!」
もちろん見えている。
興津が睨み据えているのは、今川家御嫡男上総介様とその側近たちだ。
碌な連中ではないと前々から思っていた。
だが御台様のお口添えでの任官だし、御屋形様も何もおっしゃらないので、何かがあれば手助けすればよいと見守っていたのだ。
それがよもや、今や敵である北条を城に入れるなど。
「御謀反か!」
興津が魂からの雄たけびを上げると、上総介様が怯えた表情で首を横に振った。
いくらか気弱な質ではあるが、頭の良い御子だと思っていたのに……
「ええい、何を手間取っておる!」
今川兵たちは、興津の叫びにあきらかに怯んだ。
それが面白くない者たちが、己で槍を掴んで興津を始末しようと近づいてくる。
「そのような細腕で、このわしを突けると思うておるのか!」
「これだけの兵に囲まれて、なんとかできるのは鬼福島ぐらいなものでしょう」
どこからか笑いの含んだ声が聞こえた。
今度は聞いたことがない声だ。見たこともない僧形の若い男だ。
「ですが、決着がついた件で兵を失うのもあれですので、手っ取り早く弓で射させて頂きましょうか」
北条の将か。
僧形という事は、長綱殿か。
そう思った次の瞬間、興津が予期して身体を前に進めていなければ、針山のように身体に矢が突き立っていただろう。
「いちいち予告してくれるなど、御親切な事だ」
「そんな大きな口を叩かれてよろしいのですか? こちらには人質がおりますよ」
鋭く息を飲んだのは、興津ではなく謀反者たちの方だった。
人質が誰の事をさすのか、さすがに察したのだろう。
その程度の覚悟で謀反を起こしたのか? 覚悟の「か」の字もない軟弱者めらが!
「何がおかしいのです?」
興津は知らず、笑っていた。
それを見た長綱殿が不思議そうに首を傾ける。
長綱殿も笑っているじゃないか。
さぞかし面白かったことだろう。こんなにも簡単に、実の息子に謀反させることができるとは。
「……残念です」
興津が露骨に軽蔑の目を向けると、上総介様が青白い唇を震わせた。
誰もの意見に耳を傾けるのは美徳だが、誰もの意見を聞くのは愚鈍に過ぎる。
そんな者に、大国の国主は務まらない。
「いくらでも残念がって下さい。貴殿はもはや、この先を知る事はありませぬが……」
「それはどうかな」
長綱殿は、高い位置にいる弓兵に合図をしようとした。
だがその前に、物憂げな声にその行動は妨げられた。
「病人に働かせるとは」
白い夜着に赤い羽織。いや、赤いのは大量の返り血か。
かつてを彷彿とさせるその御姿に、興津の目がジワリと潤んだ。
「……父上」
上総介様の縋りつくようなお声に、御屋形様は一瞥もくれず、ばさりとその赤い腕で握っている物を放り投げた。
「伏兵が少なすぎるのではないか」
落ちてきた首はたったひとつだが、おそらくそのすべては既にこと切れている。
興津は、長綱殿の表情から笑みが抜ける瞬間を見た。
「……ゆけ」
興津は、御屋形様の雄姿を目に焼き付けた。
おそらくその御命はもう長くない。
こうやってお目にかかるのも、これがきっと最期。
興津もこの深手では、遠からず逝くことになるだろう。
どちらが先になるかはわからないが、死出の旅路にお供できるなら僥倖。
「はい、しばしのお別れにて」
だがその前に、それぞれにやらねばならない事がある。
興津は最後に深く一礼してから、身を翻した。




