勘助(56-6~)
吉田城にはいい記憶がない。どこを見ても不幸な幼少期の思い出ばかりで、なんなら今歩いている廊下ですら、罵詈雑言を浴びせられた現場だ。
二度と来たくなかったし、来れば過去の記憶で不快な思いをするだけだとわかっていたが、勝千代殿に「来い」と呼ばれた瞬間、根強い恨みつらみよりも、そんな大舞台に呼ばれた歓喜が勝った。
吉田城に迫る細川の大軍は、勘助がいまだかつて目にしたこともない規模だ。
圧倒的な兵力差に湧き上がるのは、恐ろしさではなく期待。今度こそ自身の腕が生かされるのではないかという希望だ。
片目片足を無くし、片腕もうまく使えない有様では、武士としてはもう表舞台に立つことはないだろう。そんな諦観は、「勘助の知恵が必要だ」と綴られた書簡を読んだ瞬間に霧散した。
これだけの兵力差だ。死ぬのかもしれない。いやきっと死ぬのだろう。
……だがそれも本望。
死んだら死んだで、それだけの者だったのだ。いやこんな大舞台を用意してもらえたのだから、むしろ武士の最期として出来過ぎだろう。
勘助は吉田城で死ぬことを覚悟していたし、それはそのほかの大勢も同様だったと思う。
だが勝千代殿は違った。
こちらを振り返り、子供ならたいていが泣き出すほどの異相を真正面から見つめて、口にした第一声が「できるか」だ。
その時になって初めて、勘違いしていたことに気づいた。
勝千代殿は負ける気などない。死ぬ気ももちろんない。
思わずこぼれたのは、色々な感情が入り混じった複雑な嘆息だ。
勘助が厠に行くには、介助がいる。
その役目は常に一人の男が務めている。
「又吉」
「……へぇ」
不愛想なその男は体格が良く、手も足も顔も大きくて、声だけが小さい。
いや小さいというには語弊があって、幼い頃に人買いにさらわれた際、泣き声が耳障りだと声を潰されたのだそうだ。
それゆえに、この男は聞き取れないほどのかすれ声でしか喋ることができない。
よそには漏らすことができない情報を多く扱う勘助が、唯一長く側にいる事を許した下男だった。
「門徒と繋ぎを取れ」
「……」
「あの策を使う」
勘助が又吉を気に入っている理由は、余計な質問をしてこない事だ。
くどくどと問いかけてくることはなく、渡した結び文を受け取って首を上下させた。
勘助はこれから土手を崩す位置を指示するために出かける。実際に作業をするのは雑兵たちだが、その中にも門徒はいる。
そいつらの手から、結び文はどうやってか細川方の門徒の手に渡るのだ。
恐ろしい事に、敵味方問わず、どの陣営にも本願寺の門徒は存在する。
彼らの情報網は素晴らしく広く、しかも素早い。これまでは誰もそれを戦に有効利用しようとしてこなかったのは不思議だ。
それに気づけたことは、勘助にとって大きな武器だった。
いつまで味方になってくれるかはわからないが、使えるものは何でも使う。
手水鉢で手を洗ってから、再び廊下をすすむ。
片足を失くしてから、短い距離の移動ですら苦労するようになった。
いや廊下など平坦な所はまだいいのだ。段差がいくつもある場所は本当に困る。
「お手伝いいたしましょうか」
数段の階段を前に手間取っていると、背後から声を掛けられた。
いる事はわかっていたので、驚きはしなかった。
「こそこそするな」
勘助の喧嘩腰の口調に、勝千代殿の専属薬師はにこやかにほほ笑んだ。
この忍びは本当に目ざとい。
普段は気配すら感じさせないのに、何かをしようとするとどこかでその姿を見かける。
つまりは、又吉に渡した結び文のことも、それが本願寺門徒への指示書だということも、何もかも知っているのだろう。
「門徒へのつなぎは門徒のほうがよい」
「いえ、階段にご苦労なさっておいでのようですので」
わかっていてのその返答に、舌打ちを返す。
助けなどいらないと言いたいところだが、現実問題、不格好に苦労するよりは手を貸してもらった方が楽だ。
「内容をお伺いしても?」
肩を借りて数段上がり、手を放そうとしたところでそう問われた。
「……どうせもう知っておろう」
「ええまあ。それでも一応」
「言いとうないから言わぬ。勝千代殿にもそう伝えておけ」
この傷ひとつない温和な笑顔が嫌いだ。虫唾が走る。
表では笑って、裏ではろくでもない事を考えているのが人というもの。その典型的ともいえる愛想笑いだ。
「よろしいのですか」
弥太郎はニコニコしながら、柔らかな口調で言った。だがその目がすうっと細くなり、鈍く暗く光っている。……ほらみろ。碌なもんじゃない。
「好きに言えばよい」
土方での軽い提案は却下されてしまったので、改めてじっくり練り直し、今回の水攻めに最適な罠に仕上げた。
動かすのは雑兵を幾らかだし、目的は細川軍にいい位置にいてもらう事だ。
もともと細川軍が攻め込んでくるのは確定しているのだから、その位置の微調整ぐらいしてもいいだろう。
役者には、川の水を溢れさせる刻限に、丁度いいように配置についてもらいたいのだ。
「報告はしておきますので、言い訳はそちらでなさってください」
勝千代殿はそれどころではないだろうよ。
勘助は内心そう思っていたが、軽く肩をすくめて流した。
堤を崩すことに対して、地元の国人領主から苦情が出ているらしい。
そういうことへの対処は総大将殿及びお偉方の仕事だ。
現場はきっちり仕上げておくので、せいぜい頑張ってほしい。
これぞ裏での出来事




