証如(~49-5あたり。高天神城にて)
遠江は田舎だ。とてつもなく辺鄙なところだ。
最初にこの地に連れて来られた時、どうしてこのような所におらねばならぬ、と不服だった。
腹立たしさのあまり周囲に当たり散らし、癇癪をぶちまけてもみたが、何故か誰一人として気にも留めない。
それどころか、むしろ微笑まし気に「うんうん」と頷くものだから、きっとこの地には頭のおかしな連中しかいないのだと呆れた。
まったく取り合ってもらえなければ、張り切って暴れるのにも疲れてくる。
証如は終始むっつりと唇を引き結び、今度は逆に可能な限り人の目に触れない場所に籠るようになった。
あいつらは証如を馬鹿にしているのだ。
だからあんな目をしてじっと見てくるのだ。まるで困った童子を見るような……。
真実子供ではあるのだが、こんなところに住む田舎者に馬鹿にされる謂れはない。
悔しくて悔しくて、一人になれる場所を探して小さく丸くなった。
泣くまいと思っても涙がこみあげてきて、更にもっとたまらない気持ちになる。
「なんじゃ、食いでのあるウサギかと思うたら童子か」
そんな時、あの男に出会ったのだ。
証如はうっそうと茂る藪の中に潜り込み、ごしごしと涙を拭っている最中だった。
高天神城の敷地の中なので、不審な者は入り込めないと聞いていた。
それなのに、振り返って見上げたその男は、初見山賊に見えた。
ひどく薄汚れた……いや、着ているものは傷んではいないから、あの無精ひげと無造作な頭がそうみせるのか。
「な、何や盗人か⁈」
ついそう叫んでしまったのも、仕方がないはずだ。
即座に飛んできた拳が遠慮なく証如の頭を叩き、そんな扱いなど受けたことがないので呆けているうちに、襟首をつかまれて持ち上げられた。
「あーそうか、これが例の小坊主か」
男はそう言って、至近距離でまじまじと証如の顔を見た。
その顔は、おおよそ幼子の大半が「鬼」とか「悪鬼」とか思い浮かべそうな面相で、それを近くで見る羽目になって息すら止まった。心臓の鼓動もとまっていたかもしれない。
食われる。きっと頭からバリバリ食うのだ。
そんな恐怖にひくりと喉が鳴った。
男は片目だった。顔中に傷跡があった。
そして、証如を持ち上げているのは片腕で、ついでを言えば片足は義足だった。
「めそめそとみっともない小僧だな。はよう母御の乳でも吸いに行け」
ホロホロ涙をこぼす証如に舌打ちし、方言でよく聞き取れない悪態をつき、挙句の果てはもはや興味はないとばかりにポイと放り投げた。
証如はもんどりうって地面に落ちて、尖った石に背中をぶつけて悲鳴を上げた。
後から思い出しても顔から火が出そうだ。
いくら気が弱っていたからといって、幼子のように泣きわめくなど。
男の名は勘助というらしい。証如と同じく、高天神城の居候だそうだ。
そんな身体でも一応は武士のようだが、何故か福島家の家臣ではないという。
「其の方も厄介者か」
よくわからないが、似た立場だと聞けば恐怖も薄らいだ。
子供を泣かせたことに多少は良心が咎めたのか、渋々ながらに傷の手当てをしてくれて、見た目ほど悪い男ではないとも感じた。
勘助は醜い。姿かたちも何もかも、総じて目をそむけたくなるような男だが、何よりもその言動のすべてが醜悪な悪意の塊だ。
証如の事を何も知らぬ者ですら、ある程度はわきまえた態度で喋るのに、この男ときたら第一声が罵声だった。続く言葉も似たようなものだ。
だが、だからこそ証如の目にはそれが好ましく映った。
何故だろう、誰かに褒めそやされるよりも、遠慮のない悪態をつかれるほうがいいと感じたのだ。
証如はその後もずっと、暇さえあれば勘助の後をついて回った。
顔を見せるたびに悪態をつかれ、機嫌が悪いと物が飛んでくる。
おそらく傍目には顔を顰めたくなるようなひどい扱いに見えるのだろう。
御親切にも、「近づかない方が良い」と忠告をくれる者もいる。
大きなお世話だ。
証如はあの悪態が嫌いではない。下手なお世辞を聞かされるよりも千倍ましだ。
「帰れ!」
最近は飛んでくる物を避けるコツもわかってきたし。
唾を飛ばさんばかりの勢いで怒鳴りつけられても、「今日も元気そうや」と思うぐらいには、証如は勘助という男に慣れてしまった。
一か月ほどそんな日が続いただろうか。
ある朝証如が訪ねていくと、勘助はこれまで見たこともない表情で書簡を覗き込んでいた。
あれは東からの知らせだろう。勘助は福島家の家臣ではないと公言しているが、いろいろと尽力しているのは知っている。
居候の食い扶持分は働くとうそぶいているが、それだけではないのだろう。
勘助が普段と違う表情で考え込んでいるときは、証如とそう年回りの変わらぬ福島勝千代に問題が起こった時だ。
今回もまた何かあったのか?
あいつの事を思い出すと、勘助の渋面なみに苦い気持ちが込み上げてくる。
意味はないとわかっていても、つい今の「何者でもない」自身と比べてしまうのだ。
聞いても答えてくれないとわかっているので、何が起こっているのかと尋ねはしなかった。
まだ若い証如ですら、麒麟が天高く跳ねる姿を眩く感じるのだ。同じく「何者でもない」勘助もまた、複雑な心境だろう。
「おい」
証如は石畳の床に転がった湯飲みを拾い上げ、散らばった書物を整えた。
勘助の住まいは地下牢なので、床に置いたままだと虫が来るのだ。
次いで目に付いた位置に落ちていた小石を拾った証如は、最初呼ばれている事に気づかなかった。
「おいガキ」
「証如や」
石畳の上の小石を踏むと地味に痛いのだ。あ、あそこにもあると拾いに向かおうとしたところで「証如!」と怒鳴るように呼ばれてバッと振り返った。
驚いた。勘助に名前を呼ばれるのは初めてだ。
「兵法を覚える気はあるか」
「一応僧侶なんやが」
「ガキでも使える手札は多いに越したことはないだろう」
またガキ呼びに戻ってしまったが、それを残念に思うよりも、片目の男がまともにこちらを見ている事の方が驚きだった。
普段は見たとしても睨みつける感じなのだ。
「……勉学はきらいやない」
「卓上の理論を学んでも何にもならん。もっと実戦的な事を知りたくないか」
子供を誘うのに勉学というのはちょっとどうなんだ。
せめて「お遊び」に付き合えとぐらいは言って欲しい。
「困りごとか?」
そんなに遊びたいというのなら、付き合うのもやぶさかではない。
引き換えに何を得るかではなく、単純に興味もある。
勘助は証如の問い返しに、むっと顔をしかめた。
ただでさえ人相が良くないのに、さらにもっとひどい、さながら極悪非道の悪党のようだった。
証如は思わず笑った。
声に出して笑ったのは、随分と久々だった。
こうやってまた一人、悪の道に誘われ……ではなく。
勘助は「本願寺派という情報網」をゲットした!
証如は「大人の遊びを教えてくれる師匠」をゲットした!
……凶悪なコンビな気がしますね
勝千代が今川館を出てから河東に向かう道中あたり?
里見水軍の情報を得たのは本願寺派の門徒です




