承菊(51-8~)
この世に美しいものなどない。何もかもが醜く、穢れ、いずれ朽ちていくばかりだ。
特に人という生き物はいけない。
どんなに美しいとされる人でも、高徳といわれる僧侶でも、一皮むけばただの肉と骨。あげる悲鳴はみな同じだ。
穢れた血を吹きあげ、悪臭のする臓物をばらまき、挙句に糞尿を垂れ流しながら死ぬ。
地を這う虫とて潰せば汚い。鳥とて同様だ。
だが人のように、吐く息にすら悪業が混じる生き物はいない。
「承菊、承菊、承菊」
泣きながら繰り返す父に感じるのは、強い嫌悪感だ。
「コレ」が承菊を苦界に生み出した元凶かと思うと、今すぐ挽肉になるまで踏み潰してやりたくなる。
「承菊、すまない、すまない……」
「父上」
太い木の柵に阻まれて、伸ばそうとした父の手はこちらに届かない。
おかげで承菊のほうも、殺意を安易に実行に移さずに済んでいる。
すぐに死なせるなどもったいない。もっと苦しめて、絶望の淵に立たせて、どうかもう殺してくれと懇願してきても死なせてなどやらない。
「必ず伊豆を手に入れて、庵原の名誉を守ります故、御心配なさらず……」
そろそろ長兄には死んでもらおうか。あるいは下の子からのほうがいいか。
父は子沢山なので、正室腹ではない子も多い。そのすべてを順に殺していけば、愚鈍なこの男でもさすがに気づくだろう。
そろそろ正室が死ぬころだろうか。毒を盛り続けたのは庶子兄の乳母だ。察している者は多いのに、誰も何も言わない。承菊も言わない。
因果応報とはこのことだ。
そっと顔を背けられる気配がして、これはいけないと笑いの形に歪んだ口元を手で覆う。
勝千代殿の側付きの南という男は、意外とよく気づく。
おそらく話の内容や、父だけが気づかない匂わせもすべて報告しているのだろう。
それでも態度を変えない勝千代殿やその配下の者への印象は、承菊の中ではかなり良い。
ここでは「高徳な僧侶」や「孝行息子」の真似事をする必要はない。
父へ向けた歪んだ憎悪も、隠す必要はない。
「承菊殿」
面会を終え石階段を上がった所で、関口殿が待っていた。
血は薄いが今川家の分家筋で、御屋形様の信任も厚いと聞くが……どうだか。
伊豆侵攻は御屋形様の黙認があってのものだが、そこには間違いなく関口殿の意向も含まれている。
葛山殿の野心に父や他の駿河衆が賛同し、伊豆へと攻め入った。
関口殿はどちらかというと乗り気ではなく、渋々とついてきている態を取っている。
だが人間の本心など、当の本人にすら明確にわかるものではない。
伊豆侵攻により手に入るものに欲を出したのではないと、誰が言える?
「……先程の件だが」
勝千代殿たちと練った策は、なかなか良くできたものだった。
その後の予想される展開についても話し合われていて、これで行こうと同意も得てある。
今更その話を、しかも確実に聞き耳を立てている者がいる前でするか?
軽く首を傾け、その目をじっと見つめると、関口殿はわずかに視線を逸らせた。
承菊と目が合わない者は多いが、それとは違う。
心の動きが手に取るようにわかって、嘲笑を隠した穏やかな笑みで先を促した。
「……この話はあとにしよう」
「いえ、気になることがあるのなら今のうちに仰ってください」
策を変更する必要があるのなら、今のうちでないと難しい。
だがわかっているとも。何か別の事を匂わせようとしたのだろう? 勝千代殿の不信感を煽りたいのか?
関口殿は結局その場では何も言わなかった。
その意味は、帰還する際中にわかった。
つかず離れず複数の忍びがついてきていたのだ。関口殿の「話」とやらを確認したいのだろう。
だがこちらにしてみれば、危険な道中の護衛の代わりだ。
そんな事をせずとも、素直に頼めば護衛ぐらいつけてくれただろうに。やはり関口殿の「実直」の裏側に見え隠れする気質が好きになれない。
「承菊!」
帰還するなり、待ち構えていた長兄につかまった。
「首尾はいかがであった!」
父がいない今、実質的な庵原家の当主としてふるまっている。いや嫡男なのだから間違ってはいない。
だが、父が勝千代殿に刺客を放った件についてどう思っているのか。
罪人として捕らわれている父について一言も言及がないどころか、勝千代殿はお怒りだろうかとも尋ねてこない。
きっと何とも思っていないのだ。あるいは露見して運が悪かったという程度の感覚なのかもしれない。
承菊のみたところ、勝千代殿は深く根に持つ気質ではない。いずれ再会したときに殊勝な態度でいれば、命までは見逃してくれる気がする。
だが腹心たち、井伊殿やその他遠江の国人領主たちは忘れないし、許さないだろう。
兄が思っているほど庵原という名の楼閣は堅牢なものではない。
父がいずれ処罰されることは確実だし、庵原の本領も取り上げられるはずだ。
その時父は、兄は、どんな顔をする?
想像すればするほどゾクゾクと背筋が震え、もっと、もっとだと、余計な欲が込み上げてくる。
「……なにがおかしい」
無神経な男だが、自身への侮蔑に対しては敏感だ。
素早く顔を伏せて薄ら笑いを隠したのだが、常日頃から承菊への敵愾心を隠さない兄はすぐに気づいた。
「よもや後手にまわるようなことはあるまいな」
「……いえ」
駿河衆の動きは鈍く、そもそも既に後手後手に回っている。まあもちろん、そうなるように仕向けたからだが。
承菊は今度こそ気づかれないよう深く頭を下げた。
「陣に入ってからお話しましょう」
こんなところで大声で策を口にするわけにはいかない。相手は北条だ。奴らが熟練の忍びを抱えているのは周知の事だ。
承菊は「従順でわきまえた弟」の顔を保ったまま、丁寧な仕草で兄を陣幕へと誘った。
次の軍議は、おそらく勝千代殿が退いて後の事になる。
その時には兄を連れて行こう。
止める者のいない中、兄の無神経さに何人が辛抱できなくなるだろう。
面白い事になるに違いなかった。
承菊の視点を書くのは、けっこう神経に堪えます
大局を見る目を持ちつつも、今は身内のこと(復讐)にしか興味がありません
長く熟成させてきた恨みを成就させる時ですからね




