井伊直平(~51-8)
弱さは罪だ。
井伊は常にそう自身に言い聞かせてきた。
弱いが故に戦に負け、弱いが故に領地を削り取られる。たとえ勝ったとしても、弱ければ今度は味方にしゃぶられる。
逆に強さは正義だ。
家を守るためにも、自領を守るためにも、強くなければ戦国の世は生きていけない。
誰も信じるな。己のみを頼りにしっかりと立つのだ。
それは祖父の代から井伊家の者に刻まれてきた信念であり、井伊自身もそう言い聞かされて育った。
この歳になって、それを根底からひっくり返されるとは思ってもいなかった。
いや違う。勝千代殿は弱いのではない。
井伊がかつて知りえなかった、別種の強さを持っている。
こちらに背中を向けて立つその姿は、井伊の子供や孫の誰よりも華奢で線が細い。
非力な大人でも片手で攫えそうな、首を折るのはもっと簡単そうな。風のひと吹きで飛んで行ってしまいそうな、薄い体格の子供だ。
後ろ姿だけ見ると、物見遊山に来たのかと言いたくなる場違い感。
だが、すでにそう思う者はここにはいないだろう。
「北条本陣の位置が少し変わっている気がします。あのあたりには確か寺があったのでは」
背中を向けたまま遠くを指さすその姿は、野ウサギを見つけた幼い童子のようだが、話している内容は鋭く的確だ。
「はい。負傷者が多いのかもしれません」
庵原の秘蔵っ子、いやこいつこそ鬼子だろうと内心思っている井伊は、やけに近いその立ち位置に警戒心を抱いた。
勝千代殿は今川家の子であり、福島家の嫡男だ。
井伊とはただの知人、たまたま領地が近いというだけの仲のはずなのに、気づけばその無防備な背中の心配をしている。
庇護しようとか、そういう意味ではない。
勝千代殿をこんなところで失うわけにいかないと、否定できない強い感情がある。
「井伊殿はどう思われますか」
問われて、とっさに「そうですな」とさも熟考しているふりをする。
聞いていなかったとは言わないが、まったく別の事を考えていた。
はっきり言って、北条などどうでもいい。
戦ってみて肌で感じるのは、負けることなどないという確信。
むしろ北条よりも、今川軍の動向のほうが気にかかる。
「大局に関わるほどの事ではないと思いますが」
井伊が渋い口調でそう言うと、勝千代殿は軽やかに一度、首を上下させた。
白い元結で結んだ髪がぴょこんと揺れる。
「では、策を実行に移しましょう」
「よろしいかと存じます」
整った容貌の僧侶承菊が、至極簡単そうな口ぶりでそう言った。
実際この男にとって、勝千代殿の事はもちろん、今川軍の勝敗ですらどうでもいいのだろう。
呆れるほどまっすぐに、復讐を楽しんでいる。
そんな場合ではなかろうと思わないでもなかったが、他所様の事情に首を突っ込みたくはなく、この癖の強い男の意識が父親の方に向いているなら、きっとそのほうが平和なので見ないふりをする。
別れ際に目が合って、意味不明の満面の笑みを向けられて、ぞっと鳥肌が立った。
「……あの男、大丈夫なのですか」
思わずそう尋ね、相手が数え十の子供だという事を今更思い出して気恥ずかしくなった。
「承菊殿の事ですか?」
あんな男に「殿」などつける必要はないのに、勝千代殿の口調は常に丁寧だ。
「わざとああいう擬態をして、父親を救おうとしているのならまだ可愛げがあるのですが」
いや違うだろう。井伊は即座に否定したが、よく考えてみるとあり得ない事ではない。
庵原殿が罪に問われるのを遅らせる為に? いやまさか。
否定する気持ちと、そうかもしれないという気持ちがせめぎ合い、結局わからずに勝千代殿の表情を伺った。
年齢だけなら文句なく「可愛げ」があるはずの勝千代殿は、それとはまったく真逆の目をして承菊らの背中を見ていた。
「どちらに転んでも、対処可能です」
いや、本当に可愛げの欠片もない麒麟殿だ。
井伊は「ふう」と息を吐いた。
「本当によろしいのですか」
「かまいません」
頼もしいのは間違いないのだが、その見えすぎる目がどこまで察知しているのかと考えると空恐ろしい。
「ですがそれでは……」
話し合って決めた策は、勝千代殿に大きな負担が行くものだった。
悪意ある者なら「逃げた」と謗るだろう。更には、井伊が下手を打ったらすべての非難を負う事にもなる。
勝千代殿にそれが分っていないはずはないのに、返ってきたのは明朗な笑顔だった。
「気兼ねなく勝ちを取りに行ってください」
「……勝千代殿がそうおっしゃるのであれば」
これだ。
率先して矢面に立つこの気質を、頼もしいと思ってしまうのは正しいのだろうか。
年齢が三倍ではきかない、いい年をした大人だぞ。立場が逆じゃないのか?
差し出された漆塗りの軍配は、実用的というよりも象徴的なものだ。
井伊はまじまじとそれを見下ろして、とっさに手を後ろに隠したくなった。
目の前にあるのは、文字通り今川軍の「命運」だ。
「何をためらうのです」
勝千代殿は心底不思議そうな顔をして首を傾けた。
その表情は、腹立たしいほどに無垢な子供のようだった。
井伊は過去幾度となく、自身の非力さに唇をかんできた。
弱さは罪だ。力を持たない当主など、碌なものではない。
実際幾度となく悔しい思いもしてきたし、できない事を数える方が多かった。
そして目の前にあるのは、その「力」の象徴だ。
弱小の国人領主に過ぎない身で、これだけの数の兵を率いる機会などそう巡ってくるものではない。
無意識のうちに、「はあー」と全力でため息をついていた。
今川に臣従した身とは言えない井伊に、これほどの信頼を寄せてくれるとは、思ってもいなかった。
腹立たしいのは、無自覚なのだろう勝千代殿か。あるいは、さっくりと絡めとられた自分自身か。
井伊はその場で膝をつき、両手で軍配を受け取った。
他人に頭を下げる度に苦痛を感じて生きてきたが、今そうすることにまったく抵抗も、反発心も、後悔もなかった。
「……必ず勝利をお約束致します」
「御武運を」
軽いはずの漆塗りの木の軍配が、やけにずっしりと重かった。
一番多かった気がする、井伊殿が軍配を受け取るシーンです




